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>>児島湾の人と干拓  −沖新田の風景−

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▼第16回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景6 綿と織物
▼第15回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景5 門叩き
▼第14回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景4 薪(たきぎ)
▼第13回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景3 町並み
▼第12回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景2 水害
▼第11回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景1 飲み水

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▼第16回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景6 綿と織物

未入稿

▼第15回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景5 門叩き

「かどたたき」。聞き慣れない言葉ですが、これは干拓地に限らず、岡山では山間部も含め農村の多くの家で使用されていた道具の名前です。
 「カド=門」とは、農家の庭先を指す言葉で、およそ母屋(おもや)の南にある日当たりの良い、一面 平らな広い場所です。そのカドを「タタク=叩く」道具なので、ここでは門叩きと呼びます。また同様に、母屋や納屋の入口などの、土を叩き締め固めた床面 のことを「ドマ(土間)」と言いますが、土間を叩く道具を「土間叩き」といいます。門叩き、土間叩きともに鍬の柄の先に底部を平らにした丸太ないしは板を取り付けた形状のもので、大きくまっすぐに振り下ろすことで、「パタン」と大きな音とともに、土の表面 を平らに締めていくものです。両者の全体の大きさ、使用方法には大差はなく、叩き部分の大きさや形が多少異なる程度ですが、それぞれの場所に応じて使い易いものを選択して使用したため、とくにどれが門叩きで、どれが土間叩き、といった区別 は無いようです。ここでは、両者を合わせて「門叩き」と呼ぶ事にして、話をしていきましょう。
 カドは、農家にとっては重要な作業場の一つで、農作業の準備や、収穫した籾の脱穀や乾燥、俵詰め作業などがされるところです。カドを凸 凹なく、一面まっ平らに、きれいに叩き締めて整えておくことは、農家にとって田んぼや畑と同じくらいに手間を掛けるべき場所であり、また農家にとっては家の顔に当たるような場所でしたから、いつも余念なく手入れがされていました。ですから雨の日など、少しでもぬ かるみのできる状態のときにはカドを歩くことはできず、子供たちもカドで遊ばせてもらえることはほとんどなかったようです。
 さて、これほどまでにカドがきれいに整えられる理由について、みておきましょう。カドは先ほど述べたように、農家にとってはたいへん重要な作業場です。カドが凸 凹していれば、当然作業がしにくくなり、時には収穫物の仕上がりにも影響が出ることがあります。農家で特に注意をしていたのは、秋に収穫した稲のモミを乾燥させる時です。カド一面 に筵(むしろ)を敷いて、その上に田んぼで脱穀したばかりの稲のモミを筵一枚ごとにできるだけ一杯に、柄振りを使って均一に広げて天日乾燥させる作業です。毎日、天気の様子をみて、一般 の家でおよそ100枚前後の筵をカドに並べ、そこにモミを広げていくのです。昼間には時々モミを返して筵に載ったすべてが均一に乾燥するようにして、夕方には収納します。突然雨が降り出したりすると、家族総出で筵を母屋や長屋の庇の下に入れて、籾や筵が濡れないようにします。こうした作業をおよそ1週間続けた後、近状の人たちが総出でカドで籾摺り(「ヨース」という)をしたのち、籾を俵詰めして、倉や農業倉庫で保管をします。
 農家にとってモミの乾燥は、1年間丹精込めて作ってきた米作りの最終段階のまさに総決算の時です。また俵に保存するにも、十分きれいに乾燥させておく必要もあります。そのためにも、カドはとくに丁寧に手入れをされ、大切にされていたのです。特に春先には、干拓地のため次第に沈下していくカドに土を入れるため、また秋の米の収穫時期には、きれいに筵を広げることのできるよう、新田のあちらこちらの農家から「パタン、パタン」とカドを叩く音が響き、この地域の風物詩ともなっていたようです。
 しかし沖新田では、昭和30年代後半頃から、農業の大形機械化や籾乾燥機の出現、カントリー・エレベーターの整備などによって次第にカドでの作業も少なくなり、近年カドを叩き筵干しをしている風景を見ることはほとんどなくなりました。

参考文献
 安倉清博「政田民俗資料館の収蔵資料2 門叩き」『岡山市埋蔵文化財年報3』岡山市教育委員会、2004年

▼第14回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景4 薪(たきぎ)

広大な干拓地・沖新田の中には、山がありません。また雑木林や広大な果 樹園もなく、多くの水田と多少の畑が見られる程度です。昭和40年代頃までは、およそ沖新田の各家でほぼ毎日、焚き物を使って炊事をしたり、風呂を沸かしたりしていました。しかしそうした日常生活に必要な焚き物や薪は、どのようにしていたのでしょうか。
 ごく一般的な農村では、その近隣に里山(ここでは、人々が生活のために薪を拾ったりする、生活の中に存在する山、としましょう)があり、あるいは里山に抱かれるように農村を形成しています。人々は、里山で薪や松葉を拾い集め、炊事や風呂の焚き物にしていました。また家や道具を作るために木を切り出し、食卓にはタケノコやキノコなど山の恵みを享受してきました。地域によっては果 樹畑を開き、ブドウや桃などを栽培し、豊かな味覚を提供してきました。
 しかし、干拓地の農村では、こうした里山の農村風景とは多少異なります。 沖新田での昭和前半の生活の様子を人々に聞いてみたところ、およそ炊事や風呂の焚き物に使用したのは、水田の二毛作で刈り取られた大麦の藁(わら)、麦藁だったようです。麦藁は、沖新田に広範にあり、また稲藁や草などを焚き物にするよりもはるかに火持ちがよく、多くの家で使用されていたようです。また薪が必要な場合は、近所の家の解体で出た木材や、それが間に合わない場合は数キロ先の山まで行き、地主と交渉して米などと薪を交換してもらったりしていました。
では、麦藁や廃材以外の焚き物はなかったのでしょうか。
 新田の水際などで見られる萱(かや)は、家の屋根材料として各家で毎年確保され、数年ごとに屋根の一部分ずつ交換して、その後に焚き物として利用されました。また稲藁は、もち米を蒸したりするなど、火力の必要な場合の焚き物として使用されることがありましたが、たいていの場合、馬屋(まや。各家で飼育されていた農耕馬・牛の居場所)で、馬や牛の敷物として利用されたのち、畑などに堆肥として置かれたもので、焚き物として常用されることはなかったようです。ほかには水田の畦に植えられた畦豆(あぜまめ)を収穫した後の枝や、家庭の不用品などで、いずれも麦藁ほどには用いられていなかったようです。
 一方では、明治から昭和時代初頭にかけての、練炭や豆炭の普及によって、火鉢や七輪などにこれらが使われることも多くなってきますが、最も燃料を必要とする炊事については、戦後の家庭用ガスの普及まで、依然として麦藁が広く使用されていました。
 現在では、家庭でもガスや電気の普及で、昔ほど薪を使用しなくなってきましたし、麦藁や稲藁を使用することもほとんどなくなりました。現代の生活に慣れてしまった私たちは、こうした先人の苦労や生活をみて、物質的に豊かになった一方で、自然や環境と共存していく生活を失いかけているようにも思われます。また、農村といえば、里山の風景や薪を当たり前のように考え勝ちですが、干拓地の農村では、そうした私たちの想像以上に厳しい生活があったことも、記憶しておく必要があるように思います。

▼第13回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景3 町並み

沖新田は、地図で見ると整然と東西南北に道路と用水路があり、それに沿うように家並みがあります。
 干拓地であるこの地域では、生活をしていく上で飲料水となる用水路の水を確保しなければなりません。ですから、家並みも自然に用水路に沿った場所に形成されます。しかし、この干拓地一面 縦横に巡らされた用水路のどこにでも家並みがあるわけではありません。
 家並みのできる条件としては、次の3点が挙げられるでしょう。
 1つ目は、生活用水の流れる用水路に沿うことです。以前「飲み水」の部分でも紹介しましたが、飲み水用の生活用水と、排水用の「悪水路」は別 のものとして利用されており、すべての用水路が生活用水としての用途ではないのです。したがって、この生活用水の沿岸に、家並みが形成されます。
 2つ目は、基本的に海水面よりも高い土地で、用水路の上流あるいは流水量 の多い用水路に面したところに家並みが多いようです。海水面よりも低い土地では、干拓地の場合、ほぼ滞水状態となり、また沿岸部に近くなるほど、海水の塩分が染み込み、飲料水としては利用しにくくなってきます。そうしたことから、沖新田では、むしろ砂川や倉安川などの用水路の取水部分に近く、またわずかでも土地の標高の高いほうに、家並みが多くみられるようです。また下流域に家並みがある場合でも、その用水路は比較的流水量 の多いものが多いようです。
 3つ目は、用水路に沿った家並みが、用水路が南北に貫流する場所では、その西側に作られる傾向のあることです。もちろん、用水路の東側に作られるところや、東西に流れる用水では南北いずれの家並みもあります。しかし基本的に、沖新田の用水路は南北方向を主軸とし、東西方向は主軸に至る流路または主軸から枝分かれした水路として作られたようで、ここでは南北方向の用水路をみていきます。用水路の西側に家並みが形成される傾向のあることは、この地域では水田への日照の関係として説明されることが多く、実際にも出来の良い収穫となるようです。あるいは民俗学的に、岡山県南部の平野にある農家の典型的な配置として、南にカド、北に母屋、その中の北東に炊事場、母屋の西側に土蔵を設けるとされ、こうした配置を沖新田に当てはめてみると、炊事場が用水路に近く、土蔵が用水路から遠い配置となる、用水路の西側の家並みが基本となるようです。しかし実際のところ、どのような理由で家並みが用水路の西側に多く形成されるのかは分かりません。
 沖新田の用水路に沿った家並みは、古くは上に挙げたような諸条件の中で形成されていったものですが、近年は上水道の敷設や用水路の三方コンクリート化、道路の拡幅・新築、水田の嵩上げ工事や、新田内の排水の機械化による用水管理などの急速な近代化、そして住宅団地や工業団地の造成などは、新しい家並みを生み出し、旧来の用水路にとらわれることもなくなりつつあります。

▼第12回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景2 水害

沖新田は、その大半が現在でも海抜以下の低地です。このため、堤防沿いに設けられた巨大な排水ポンプで陸地側の水量を調整しながら、児島湾へ随時排水をしています。
 ポンプが導入される前、戦前の沖新田は、まさしく水害との戦いでした。この水害との戦いを人々はどのように乗り越えてきたのでしょうか。
 干拓地、しかも海水面より低い土地であるため、生活・農業用水として、縦横の用水路を流れてきた大量の水は、最後に干拓地の海に最も近い場所、すなわち遊水地として設けられた四番川、六番川、そして、堤防に沿って遊水地へ向けて流れる「潮廻し」へ蓄えられます。その水は、ある程度溜められた後に、児島湾の引き潮を見計らって堤防の各所に設けられた水門を開け、海に排水されます。やがて満ち潮になる中で、排水に替わって堤防内への海水の流入が始まる前に、水門が閉じられ、排水は終了します。この作業は、以前は樋守の人が代々受け継いで行い、車地(しゃち)巻き上げの手動での仕事でした。
 しかし、大潮の時期や台風などで、海水面の上昇が平常を著しく上回る場合は、排水のためにと水門を開けると、逆に海水が陸地側に流入してくるので、水門が数日空けられないままとなります。一方では用水路上流からの真水の流入も続くため、結局、先に挙げた遊水地や潮廻しも一杯となり、やがて干拓地の中でも最も海抜の低い陸地である、堤防に沿った付近の水田や道路は、真水に浸かりきってしまうことがしばしばありました。こうした状態を、この地では「十日閊え(とーかづかえ)」や「二十日閊え(はつかづかえ)」といい、干拓地で生活していく上では仕方の無いものとされていました。このことで、倒れて水に浸かった稲の穂から根が生えてきたり、稲が腐ってしまうことも多くありました。
 また、日常の水害とは別に、災害による水害もあります。
 台風の時期には、高潮や強風によって、堤防付近の水田では海水の影響を受けた「塩害」も発生しています。9月から10月にかけて、水田では穂を付け始めた稲がたびたび海水をかぶり、穂が枯れてしまうという大変な被害です。干拓地はほとんど風を遮るものもなく、ひとたび海水が風に乗ると、一面が塩害の影響を受けていたようです。
 他にも、大雨によって、用水路の上流の河川の堤防が決壊したり、溢れ出したりすることもありました。最近では、明治25(1892)年(豪雨による)、明治26(1893)年(豪雨による)、そして昭和9(1934)年(室戸台風による)の大水害がよく語られています。
 明治25・26年の水害については、もうすでに記憶を持った人はおらず、文献などの記録によるしかありません(『上道郡史』などに詳しい)。しかし沖新田で暮らし続けている古老には、その話を、当時実際に経験した父母や祖父母から聞いている人も多く、いまなおその経験は伝わっています。中には、家の1階部分が水没し、飼っていた牛馬を近くの「山」(水田の水利を容易にするため、微高な土地の上土を取り除いたものを集積した、幅・高さとも数メートル程度の人工の山)に連れて行き放していた、とか、家々に植えている避難用の松の木に登っていた、といったものもあり、どの話も被害の規模を直接伝えるものではありませんが、この干拓地で暮らす苦労や怖さを知るには十分なものです。
また昭和9年の水害については、まだ実際に経験した人々が多くおられ、生々しい証言を聞くことができます。たとえば、百間川近くに住んでいた人は、洪水の翌朝、沖田神社近くで百間川堤防に上がってみると、もう5センチほどで堤防から水か溢れ出しそうな状態で、ゴウゴウと水が音を立てて流れ、牛馬や家などが上流からたくさん流れてきたのを見た、と話しています。あるいは砂川の堤防が決壊して、1階の梁まで水がどっときた、といった話、また土地によっては、全く水害の影響を受けていない場所もあったようで、同じ干拓地でも、微細な土地の高低、河川や用水路の流れ方で、その被害も大きく異なっていたようです。
ここに挙げた明治25・26年、昭和9年の水害のほか、記録によれば元禄5(1692)年に大水尾付近(現在の百間川河口付近)の堤防が高潮で破損、宝永4(1707)年から明治元(1868)年の間に7回の洪水があったとされていますが、その詳細はよくわかりません。

参考文献 ・『沖新田悔恨三百年記念史』(前掲)

▼第11回 第2章 干拓地・沖新田の生活風景1 飲み水

沖新田の干拓地は、もと海底であったため、飲用に適した真水が流れる川もなく、また井戸を掘っても塩分を含む水が湧き出すだけで、そこに生活する人々にとって真水を得ることは、最も大切なことであり、大変なことでした。
 沖新田干拓では、東部を流れる吉井川、西部を流れる旭川とともに、中央部を流れる百間川や砂川を延長したり、倉安川や祇園用水を開削したりするなど、真水の確保に努めました。またそれぞれの河川からは堀り上げの用水路を掘削し、新田全域に真水がくまなくいきわたるよう、作り上げられました。
 昭和30年代にこの地域に上水道が敷設されるまでは、これらの用水路は生活にも、水田にもなくてはならないものでした。しかし上流から流れてくる水は、上流の排水も混ざっていますし、井戸水のように常にきれいな状態が保たれているものでもありません。それに常に豊富な水量 が保たれていたわけでもありませんから、この沖新田に暮らす人々は、こうした水を得るために大変な苦労や工夫をしました。
 初夏、沖新田の人々は、上流から少しでも多くのきれいな水を得るため、用水路の最上流の川まで草刈りや藻引きに行き、上流の村の分までする事もあったようです。また沖新田では、用水路の草刈りは農家の人々のみでなく、昭和初期には小学生が授業の一環として奉仕作業を行なっています。人々は干拓地で生きていくために、水を得る苦労をしていました。ですから、堀り上げの用水路では、砂や草による自然浄化作用が働き、用水路の底まで透き通 る、きれいな水であったといわれています。また人々は、用水路から得た水で炊事をし、それらの排水は用水路に戻さず、田や畑の持っていき、散水に利用しました。自分たちの排水で用水路を汚さない工夫です。なお、田んぼなどを通 過した水は、一般の用水路とは別の「悪水路」(あくすいろ)に流し、その水はそのまま、新田の潮回しへ、そして四番川、六番川などの遊水地へ貯められたのち、児島湾へ放流されていました。
 用水路から得た水は、そのまま炊事に使用したわけではありません。一度煮沸したのち、利用されていました。また、いつごろから始まったものかは不明ですが、いくつかの家庭には小形の水漉甕(みずこしがめ)があり、それを通 した水を煮沸して利用していました。水漉甕は、およそ88センチメートル、直径40センチメートルほどの筒型で、上になる一方が開いており、下になる一方が塞がり、側面 一番下の1か所に2.5センチメートルほどの、木の栓が差し込めるような穴があいています。筒の中には砂や消し炭、小石などが交互に詰め込まれ、上から用水路の水が入れられると、中の小石などを通 って下の穴から水が出てきます。水は、用水路の小さなごみなどが取り除かれたものですが、泥水や微生物などは除去できませんので、煮沸をしました。この水漉甕は年に1度、夏の時期に中身を全部出して、砂や炭の掃除・交換がされました。
 また、大正時代から昭和19年頃までの間に、各小集落ごとに「濾過槽」といわれる、いわば巨大な水漉甕がつくられました。これはコンクリートを主に2槽から4槽式のもので、それぞれに繰り返し水が通 過することで、よりきれいな水を得られるよう、工夫されたものでした。村の人々は、共同で濾過槽を管理し、大切にされていました。なお、濾過槽で桶に水を汲んで家まで運ぶのは、およそ子供の仕事となっていたようです。
 しかしこうした用水路の水も、上水道の普及に伴い次第に水質が悪化し、また用水路の護岸保全や、用水路岸の道路拡張などのため、現在は沖新田全域が三方コンクリートとなり、往時の豊かな用水路の姿は見ることが出来ません。



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