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>>児島湾の人と干拓  −沖新田の風景−

>>全体の構成(スケジュール)はこちら

▼第10回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景5 広大な水田
▼第9回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景4 倉安川と砂川
▼第8回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景3 産土神と神仏
▼第7回 第1章 干拓地・干拓地・沖新田の昨今風景2 仕切道と用水路
▼第6回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景1 堤防に沿って

>>最新の回 >第2章 >プロローグ

▼第10回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景5 広大な水田

岡山市の南部に位置する沖新田は、東西およそ7キロメートル、南北およそ4キロメートル、その面 積はおよそ1900ヘクタールといわれる、広大な土地です。現在は、この干拓地に7733世帯、22083人が居住し(2003年9月末現在)、小学校が4校、中学校が2校、あります(注)。
 沖新田は一面がまっ平らな土地ですから、百間川の堤防や、そうしたやや高い場所に立って眺めてみると、ずいぶんと見通 しがよく、岡山市街地や児島半島、そして天気の良い日には小豆島なども見えます。
 江戸時代、この新田が開かれて29年後に纏められた地誌によれば、この新田での概要は以下の通 りです。(石丸定良著『備陽記』巻第十七、享保6年(1721)成立から。記載されている地名の一部を修正)

 一番(現・江崎)
  田畠175町7反3畝10歩 村高3445石4斗8升3合 家数136軒 男女771人
 三番(現・江並)
  田畠139町3反4畝18歩 村高2684石7斗6升 家数95軒 男女629人
 四番(現・桑野、沖元)
  田畠228町1反8畝8歩半 村高5533石4斗9升 家数94件 男女579人
五番(現・光津)
 田畠162町7反2畝15歩 村高2981石2斗2升5合 家数129軒 男女766人
六番(現・政津)
 田畠179町2反4畝23歩 村高3426石3斗9升 家数105軒 男女579人
内七番(現・君津)
 田畠127町4反9畝22歩 村高2370石9斗8升8合 家数117軒 男女729人
外七番(現・升田)
 田畠218町5反12歩半 村高5051石5斗6升 家数132軒 男女763人
九番(現・豊田、九蟠)
 田畠136町7反3歩半 村高2545石9升2合 家数125軒 男女685人
計 田畠1367町9反2畝22歩半 村高28038石9斗8升8合 家数933軒 男女5501人

沖新田が潮止めをされた後、塩抜きや用水路・道路などの土地が整備され、やがて人々が入植し、やがて美田といえるようになるまでには、かなりの年月がかかったものと考えられます。先にあげたデータ自体が、沖新田での完成された収穫高とはいえないでしょうが、私達はこの土地に入植して働いた人々の不屈な「新田魂」を感じざるをえません。
こうした広大な水田も、戦後の経済成長に合わせて、岡山市の工業地帯として利用されるようになり、特に沖新田西部の旭川に沿った地域では、産業道路の開通 とともに岡山市南部の商工業地帯へと変化していきました。また国道2号線の通 過や道路網の整備によって、往時の水田は急速に減少し、現在では沖新田中心部付近、百間川に沿う地域を中心に広大な水田を見ることができるにすぎません。

▼注  沖新田は、実際には一部学区が入り込んでいたり、小規模な新田もいくつか合わさっているため、厳密には多少の前後はありますが、ここではおよその数字として提示しておきます

▼第9回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景4 倉安川と砂川

人間が生きていくため、そして農業にもなくてはならないものは、土地、日光、そして真水です。これらは当然、今なお沖新田でも欠かせないものですが、1692年の干拓以降、広大な土地を手にした沖新田では、真水を得るために大変な苦労をしていました。
 海底を陸地へと変えた干拓地・沖新田で、もっとも必要とされたものは、真水でした。旧海底のため、井戸を掘っても塩水しか出ず、真水をえるためには、はるか数キロ上流から用水路を作って導水する必要がありました。
 沖新田の水は、大きく分けて3つの川から得ています。東から、吉井川、砂川、そして旭川です。どの川の水を得るに当たっても、大変な労苦と知恵がありました。
 吉井川からは、西大寺の町の中を流れる二膳樋用水と、そのはるか上流から倉安川が取水されています。
二膳樋用水は、瀬戸内海の汽水域上限の鴨越堰から取水して、中世に栄えた西大寺の町中を通 り、やがて金岡新田と沖新田の境を流れながら新田に分流し、最後は沖新田の東端の九蟠西部で終わります。
倉安川は、もともと沖新田以前に完成した倉田新田の取水と、岡山城下への水運短縮のため、1679年に完成したものです。全長20・の運河で、吉井川の取水門(岡山市吉井)から途中多くの水田を潤わせながら途中砂川へ合流、すぐに分岐して芥子山南麓を流れ、やがて百間川を横断し、今度は操山山塊の南麓を流れて旭川に合流して終わります。おおむね、芥子山南麓のやや南部分、そして操山裾部の倉安川以南は、江戸時代の干拓地です。これらの土地の大部分を担う重要な水路です。沖新田では、その北端部の「高浜新田」といわれる地域に使用されています。なお、現在の倉安川は、途中の砂川、百間川それぞれで分断しており、一本となっていません。そのため、とくに操山南麓では、現在は旭川の水を取水しています。
 砂川からは、沖新田東手(中央を流れる百間川より東部分)の、二膳樋用水の部分以外のすべてを賄っています。以前は砂川に二つの堰があり、ここから水を分水して沖新田全体へ配水していました。現在は合同堰として1箇所の堰となりましたが、以前の水系を利用して、今なお昔ながらの水利利用となっています。
 最後に、旭川からの用水です。旭川からは、岡山平野の北端部に位 置する上流(岡山市祇園)から「祇園用水」として、用水路が導水されています。この祇園用水自体の開削時期は不明ですが、必要に応じてしだいに延長されたようで、特に操山北部の平野部に広がる水田地帯の水を一手に賄っている用水です。この用水は旭川に並ぶように岡山市街地東部を南下し、操山山塊の西裾を通 って倉安川の下を潜り抜けて沖新田の西端をまっすぐに流れて、やがて三蟠で終点となります。この祇園用水は、沖新田地内ではとくに倉安川が飲料用水として届きにくい三蟠やそれにいたる流域で重要な役割を持っていると考えられ、古くはこの祇園用水沿いにも多くの家が立ち並んでいました。なお、すぐ脇に旭川があるにも関わらず、わざわざ祇園用水を導水した理由としては、吉井川と同様、感潮点の影響があるようです。現在旭川には防潮のための可動堰が岡山城下流部分に設置されていますが、江戸時代にはこうした堰を城下に作ることも出来ず、感潮ぎりぎりの祇園からわざわざ取水したようです。
 こうしてみてきたように、沖新田は多くの河川と用水によって成り立っています。それだけ広大な水田地であり、また複雑な地形や水利権の入り組んだ土地であったようです。

▼おもな参考文献
・高田正規「倉安川」『岡山県台百科事典』山陽新聞社、1980年

▼第8回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景3 産土神と神仏

沖新田の産土神(うぶすなのかみ)は、新田のほぼ中央部に位 置する「沖田神社」です。
 沖田神社は、1694年に岡山藩主・池田綱政の命によって京都・吉田家から勧請され、当時は現在の社殿の南約1・の通 称「古宮(ふるみや)神社」に祭られました。しかし水害などにたびたび見舞われたため、1709年に現在地へ移転しています。この神社の氏子は、沖新田全域をはじめ、隣の倉田新田、近年では岡山市内(特に都市部)に広くあり、神社境内に祭られている「道通 宮(どうつうぐう)」とともに深く信仰されています。
 この沖新田では、この産土神である沖田神社のほかに、さまざまな神仏があちらこちらに見かけられます。中でも最もよく知られているのが「沖新田八十八ヶ所」と呼ばれるもので、四国霊場八十八ヶ所を模倣して、沖新田全体に祠を設置し、巡拝するものです。この沖新田八十八ヶ所の開基については不明ですが、1811年に製作された「沖新田八拾八ヶ所獨案内」の版木のあることから、これ以前あるいはこの当時の開基と見られます。
 また、土地の神様として「地神様(ぢがみさま)」が、概ね各集落に見られます。五角柱の石作りで、それぞれの面 に神名を記したもので、春と秋の社日(しゃにち)には町内の人たちが額や幟を立てて、お膳を供えたりしてお祭りをします。この沖新田に所在する地神様は、岡山県南部の分布を見ても早い時期のものとされ、干拓地といった不安定な地盤に生活する人々の素朴な信仰の様子が伺えます。同様に、「水神様・竜神様」(水の神)、「金毘羅様」(海の神)、「愛宕神社」(火の神)、「稲荷様」(豊作の神)、「恵比須様」(豊漁の神)、「祇園様・木山様・木野山様」(疫病退散の神)、「天神様・白鳥様・観音様」(開運の神)、「お地蔵様」(救済と供養)、「牛神様・牛瀧様」(牛馬の神)、など多様です。
 そのほか、新田全体というよりも、町内や近所同士で「講」と呼ばれる集団を形成して、それぞれの信仰する神仏を拝むことがあります。こうした祭祀は他の農村地域でもよく見られますが、およそ「お大師講」「金比羅講」「伊勢講」「山上講」「木野山講」など、岡山県内全般 に見られるものや、時には邑久郡、児島郡などに所在する特定の神社や仏閣の祭礼、信仰などにおける講も見られます。こうした祭祀は、新田特有の生活形態が深く関わっているようです。
 すなわち、新田として開墾されて以降、他地域から入植した人々によって開発された場所であるため、当然のことながらあらゆる地域の生活文化が持ち込まれるものです。その中には家の「屋号」や婚姻関係、母村の本家や旦那寺、氏神などの信仰など、「イエ」といった繋がりを辿っていくと、一般 の自然発生的な農村の様子とは異なった部分が見えてきます。こうした「血縁的」な繋がりは、今なお精神的に重要なものとして、継承されているイエも少なくありません。一方で、出身地や新田における集落を構成する「地縁的」な繋がりも、生活をしていく上では重要です。地縁的な関係として、出身地と新田集落の構成について研究した例によれば、およそ新田集落における出身地(母村)には傾向があるとされ、新田集落それぞれに、出身地の持つ生活文化があるようです。
 しかし色々な地域から入植をしてきた一方で、干拓地・沖新田に暮らす人々にとって、産土神である沖田神社の存在はまた異なったものであるようです。母村の神仏をイエや講で祀る一方、日常は沖田神社に参拝するといった、ある種「都市的な」生活文化の見られる地域であるとも言えるのではないでしょうか。

▼おもな参考文献
・前掲『沖新田の歴史と物語』
・喜多村俊夫「備前藩営沖新田における土地問題」(『新田村落の史的展開と土地問題』岩波書店、1981年所収)
・前掲『沖新田開墾三百年記念史』
・正富博行『岡山の地神様―五角形の大地の神―』吉備人出版、2001年

▼第7回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景2 絵図に見る仕切道と用水路

沖新田は、東西約7km、南北約4km、その広さはおよそ1900haといった、広大なものです。1692年に干潟を干拓するため、総延長約12kmの堤防を作り、内部の塩水を抜いて陸地としたものですが、このままでは、干拓の目的とする水田も出来ませんし、人々が住むことも出来ないため、道路や用水などの整備をする必要がありました。  堤防工事の完成した翌年の1693年、新田の地割りを行ない、用水路や道路、橋、樋門の工事がされ、土地の値段を決めました。この年から和気郡、邑久郡、児島郡などを中心に人々が移住してきました。
 さて、一連の干拓工事以後、この沖新田では近年まであまり大きな変化といったものは見られませんでした。しかし生活の近代化などで、自動車が通行できるように道路が拡張されたり、新たに作られたり、あるいは水田に広く見られた堀田が消滅したり、古い樋門が改修工事などで姿を変えたりと、近代化の必要に応じて少しずつ変化をし続けています。
 こうした変化の中で、その姿や位置をほとんど変化させていないのが、「仕切道」と「用水路」です。「仕切道」とは、新田の地割りを位置づける重要な仕切りの痕跡と考えられます。「池田家文庫」にある沖新田の絵図には、堤防が完成されたばかりの様子と見られる開墾絵図がありますが、その堤防の中に、仕切り道が既に描かれています。現在で言えば、中央の百間川の東手が「小仕切道」、西手が「仕切土手」といわれている道に該当します。そしてこの絵図には用水路の配置案と見られる線も入れられていますが、他の仕切り道や道路はまだ描かれておらず、一方では干拓前の様子を示していると思われる絵図に見られる干潟の中の水の流れは、およそそのまま用水と入り混じりながら描かれています。  この沖新田が完成した状態は、どのような姿だったのでしょうか。
 これまでのところ、江戸時代の後期、1818年に沖新田外七番(現在の岡山市升田・豊田)の鹿之介によって描かれた「沖新田東西之図」(岡山市立中央図書館蔵)が、もっとも良く描かれた最古の絵図とみられています。この絵図は、約6000分の1の縮尺で描かれており、現代の地形図ともほぼ正確に対応します。この絵図の中には、家並みや松並木などとともに、道路や用水路が描かれており、特に用水路については分木(分流点)や底樋(用水路の立体交差部分)が細かく描かれています。この絵図をみていくと、東西に走る道路には「宮道通」「小仕切道」「大仕切道」「仕切道」と書かれ、その様子はおよそ等間隔で見られます。また用水路も、現在なおほとんど変化のない状態であることが分かります。
 現在のこうした仕切道や用水路は、どのような状況でしょうか。
 仕切道は、当初から道路として使用されていたようで、現在はアスファルト舗装がされ、また道幅の拡がった部分はあるものの、往時と大きな変化もないまま、生活道路として利用されています。
 用水路も昭和時代の終わりに、それまでの素掘りの用水から三方コンクリートのそれに変わり、地域の景観は大きく変化したものの、水田用水としての機能は昔のままです。

▼第6回 第1章 干拓地・沖新田の昨今風景1 堤防に沿って

児島湾に面した沖新田の堤防は、1692年に干拓工事された時の総延長が6,518間、およそ12・で、現在でも改修されながら利用されています。当時の堤防の面 影を残す部分は、ごくわずかとなりましたが、その堤防に沿った風景は、干拓地特有の風景でもあります。
 干拓工事では、全長約12・となる堤防を、一番から九番の9つの丁場(現場)に分けて同時進行で競い合いながら工事したとされ、現在でもこの丁場の名残として「二番用水」「三蟠」「四番川」「五番川」「六番川」「八番用水」「九蟠」など、地名や用水名など各所に見ることができます。
 ここでは、この一番から九番の順に、堤防上を歩きながら昨今の風景を眺めていきたいと思います。
 沖新田の堤防の始まりは、その西側の旭川に沿った、岡山市江崎からです。現在、旭川を渡る国道2号からおよそ600m下流の、地元で「宮道(みやみち)」と呼ばれる東西方向に走る道が、堤防と接する部分から南が「一番」となります。このことは1818年に描かれた「沖新田東西之図」と、現在の地形図を比較してみると、およそ一致します。ここから沖新田が始まります。
 旭川に沿った堤防からの風景は、新しい家が増えたものの、家並みや水田の風景は昔と大きく変わった部分はありません。堤防工事の記録によれば、この途中から「二番」の丁場となりますが、現在はやや内陸を旭川と平行に流れる「二番用水」にしかその名を残していません。大正から昭和時代の初期には、この堤防に沿うように、水田の中を「三蟠軽便鉄道」が走っていました。この鉄道は、旧岡山市への玄関口として開かれた三蟠港から岡山市街地への陸上交通 手段として開設されたものです。この背景には、明治時代末から昭和時代初期にかけて、特に四国や京阪神地域間を中心とする瀬戸内海航路の充実に伴う宇野港や宇野線の整備によって、児島湾内での乗り換えなどの不便さなどから三蟠港の利用が減退したため、軽便鉄道の敷設によって港の活性化を図ろうとしたものでしたが、旅客や貨物の輸送は減衰の一途をたどり、廃止されました。現在は全路線のうちでも、ほんの数箇所にしかその痕跡を見ることができません。
 さて、この三蟠軽便鉄道の終着点、三蟠地区は、もと「三番」と呼ばれていた地域ですが、明治時代に現在の地名となりました。旭川と児島湾の境に位 置し、三蟠港を中心に交通の利便性はすぐれた場所でした。このため江戸時代は岡山城下の防衛上、三蟠港は漁業や児島半島との往来に利用される程度の小さな港で、その周辺は水田の広がる純農村でしたが、明治時代以降、三蟠港が岡山への基地として開かれ、また火力発電所やコルク工場など工業地域としてもその萌芽を見せています。現在は岡山市の工業地域の一つとして、農機具やコンクリート工場などが立ち並んでいます。
 この三蟠地区には、往時の堤防跡の風景が見られます。三蟠港が栄えた時期の旅館や駅舎、明治天皇上陸記念碑などとともに、細い堤防道路は静かに歴史を語っています。この三蟠地区の家並みの中、堤防は南流する旭川の河口に差し掛かり、そこからゆっくりと東へ進路を変えて児島湾沿いに東進していきます。
 堤防が東に向くとすぐに、岡山港となります。岡山港(高島地区)は昭和50年頃から順次整備され、現在は小豆島航路の要として、また岡山市への荷揚げ場として重要な位 置を占めています。
 岡山港を過ぎると、やがて四番川、そして百間川の河口へ差し掛かります。四番川は潮回しの池としての役割が、そして百間川は昔「五番川」とも呼ばれ、旭川放水路として、また沖新田の大水尾としての役割を持っています。この河口に現在は大規模な水門が設置されていますが、昭和30年代までは「唐樋」と呼ばれた、「東洋一の樋門」といわれた石組の巨大な水門がありました。大規模な洪水の際に機能するように工夫されていました。
 百間川河口を過ぎると、陸側には岡東浄化センター、六番川水の公園、六番川と見えてきます。もとこれら全体が以前は「六番川」として、百間川の西にある「四番川」と同様、潮回しとして機能していたものです。現在は浄化センターなどの建設でおよそ半分ほどの広さになりましたが、とても広い池です。
 この六番川の付近から、堤防の児島湾側には、「四つ手網小屋」といわれる施設が、延々と50軒以上連なります。もとは六番川などで淡水魚を捕るために漁業者が設置していたものですが、戦後に児島湾側に、そして現在では観光用として利用されています。この四つ手網の風景は、現在の児島湾を代表する夏の風物詩として広く知られています。
 堤防に沿って、しばらくは陸側に広大な新田の風景が見えますが、この地域は古く「外七番」と呼ばれる地域でした(これに対してやや内陸を「内七番」と呼んでいました)。この付近では児島湾側には四つ手網小屋が並び、その向こう側には児島半島が眼前に見渡せます。
 やがて「八番用水」を超えるとすぐ、陸側には巨大な工場群が見えてきます。九蟠工業地帯と呼ばれるもので、昭和時代の終わりから開発が進められました。それ以前は広大な水田でしたが、この付近は沖新田の中でももっとも土地が低い位 置にくるため、「堀田」がもっともよく発達した地域でした。
 この工業団地群を過ぎるとすぐ、眼前に九蟠港が見え、堤防は大きくカーブして、児島湾から吉井川に沿って北上し始めます。このカーブとなる海側に九蟠港があります。九蟠港は江戸時代から岡山藩の海上交通 上重要な港として位置づけられ、明治時代には巨大な蒸気船が出入りし、多くの倉や遊郭などが並んでいたといわれています。現在では堤防改修などによって港周辺にその面 影はほとんど見られませんが、港にある石作りの常夜灯には、その風格を伺うことが出来ます。
 堤防は吉井川に沿って一直線に北上します。この付近もまた、堤防内は広大な水田が眺望でき、堤防自体も古い様相を残しています。
 堤防を進むと、その先に巨大な工場があり、その工場に沿って道が緩やかに曲がって進みます。この付近が「十番」といわれ、この道自体が堤防の終結部となります。この終結部自体もはっきりとはしませんが、「沖新田東西之図」や、現在の地形等から検討すると、この道に沿って鎮座している「〆崎様(しめざきさま)」と呼ばれる神社付近が終点となるようです。

おもな参考文献
・前掲『三蟠村誌』
・前掲『沖新田開墾三百年記念史』
・上道郡教育会編『上道郡誌』、1922年。



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