スタッフブログ>> 仕事の途中 >週刊 編集日和 >ニコニコプンプン
ただ今連載中>> >どんなこともケロっと2

>>児島湾の人と干拓  −沖新田の風景−

>>全体の構成(スケジュール)はこちら

▼第5回 プロローグ 沖新田の物語
▼第4回 プロローグ 沖新田の形成
▼第3回 プロローグ 近世の干拓新田地帯
▼第2回 プロローグ 児島湾の漁業
▼第1回 プロローグ 児島湾

>>最新の回 >第2章 >第1章

▼第5回 プロローグ5 沖新田の物語

江戸時代の干拓地・沖新田には、この干拓工事に関わる悲しい物語があります。「おきた姫」の人柱の物語です。
 元禄5(1692)年1月11日、岡山藩によって始まった干拓工事は、児島湾の干潟に陸地から堤防を回し、その中を干上がらせるものでした。全長1918間、およそ12キロメートルの堤防の工事は、全体を大きく3つの丁場(工区)に分け、それをまた3つに区切る、すなわち全体を9つの丁場として、それぞれを競い合わせるもので、およそ半年後の6月23日に潮止め工事が、そして7月19日には堤防工事が完了し、沖新田の干拓工事が完了しました。
 この潮止め工事完了間際のこととして、「おきた姫」の話があります。話の細かい内容や、おきた姫の人物像としては、いろいろな説がありますが、ここでは沖新田で言い伝えられている一般 的な話を紹介しましょう。
 昔は、堤防や橋などを工事するなど、海や川に手を入れるときには、水神を祭る習慣がありました。工事がうまく進まないことなどがあれば、それは水神が怒っていると考え、その「いけにえ」として、生きた人間を水に沈めて水神を慰めることがありました。
 沖新田の堤防工事では最後の潮止め工事にさしかかった頃、前日に潮止めをした部分が翌日には崩れており、そうしたことが数日繰り返されました。「これは水神様のたたり」として、人々は工事にも手が付かず、堤防工事は停滞しました。この話を聞いた干拓工事の責任者の郡代・津田永忠は、家臣とともに工事の方法などについて悩んでいたところ、永忠の屋敷に仕えていた「きた」という女性が、「人柱が立てば工事が無事に進むのなら、私が人柱に立ちましょう」と申し出、後日、白装束に身を包んだきたは、人々の見守る中、海中に身を投じました。するとそれまで荒れていた潮流が収まり、堤防の潮止め工事は順調に完成したといわれています。
 現在、このおきた姫が入水した場所というのは、いくつかの説がありますが、大きく分けて2箇所が有力です。一つは、堤防工事を行なう中で、水深の最も深い場所といわれた九蟠港のやや北の付近、もう一つは、児島湾の潮流を強く受ける百間川の河口付近の、以前に「唐樋」とよばれた河口水門の西側付近です。いずれももっともな理由のある場所と思われますが、地元でもはっきりした言い伝えは残っていません。
 さて、この沖新田のほぼ中心部、百間川堤防の西手に沖田神社がありますが、ここの祭神の一柱として、おきた姫が祀られています。沖田神社はもともと干拓地・沖新田の産土神(うぶすなかみ=その土地の神様のこと)であるとともに、この「きた」を祀るために作られたともいわれる神社で、沖新田完成後の1694年に創建されています。この神社では沖新田開墾280年の時に神社本殿の床下を修復する際、そこから石の祠と五輪塔が現れました。この祠と五輪塔こそ、おきた姫を祭ったものともいわれ、この時におきた姫もあらたに祭神として加えられました。そして1996年には、神社境内の本殿の背後に、おきた姫神社が新たに建立されました。
 この「おきた姫」の物語は、ほかにもいろいろな話として伝えられており、『沖新田開墾三百年記念史』では計7種類の話と、いくつかの問題点が指摘されています。
 このおきた姫の物語は、事実かどうかはわかりません。文献にも確実なこととして明記されているものもまだ発見されていませんし、伝説として各所で「おきた姫の生家跡」「おきた姫の墓」などといわれるところがあり、果 たしてどれが「正しい」という結論さえ不明です。しかし、沖新田に住んでいる人々にとって、このおきた姫の物語は、事実であれフィクションであれ、人々の心に強く生き続けています。つまり、沖新田開墾以来、農作業や水田の管理が急速に近代化されるま昭和30年代までの約260年余りの間、ここに暮らす人々は、数多くの天災や困難な生活、過酷な農作業など、日々生きていく厳しさを体験しています。そうした中で、この沖新田を作り、人々を救うために自らの命を神に捧げたおきた姫の物語は、そこに暮らす人々の心の支えとなり、伝えられてきたのです。

おもな参考文献
・ 沖新田史編集委員会編『沖新田の歴史と物語』沖新田史編集委員会、1968年。
・ 沖新田開墾三百年奉賛会記念史編集委員会編『沖新田開墾三百年記念史』沖新田開墾三百年奉賛会記念史編集委員会、1997年。

▼第4回 プロローグ4 児島湾北部の干拓と沖新田の形成

児島湾に面した「沖新田」。文字通 り、児島湾北部の干拓地の中で陸地から少しずつ派生した新田群の、その最も沖に位 置する新田です。
 沖新田は、東西約7km、南北約4km、面積が約1900haといわれる、広大な土地です。その中には現在、小学校4学区、中学校2学区あり、全体でおよそ7700世帯、2万2千人の人々が生活をしています。この沖新田の両端部、旭川と吉井川のそれぞれの河口に面 した地域では、巨大な工業団地が立地し、岡山市でも有数の工業地帯を形成しています。一方で沖新田の中央には南北に百間川が流れ、そこに沿う地域は今なお、岡山の穀倉地帯として広大な水田が広がっています。
 沖新田は、岡山藩の政策によって、元禄5(1692)年に作られました。岡山藩内にはもともと水田に適した広大で肥沃な土地が少なかったため、藩では江戸時代の初めから、熊沢蕃山や津田永忠といった人物を重用し、その意見を聞きながらたびたび児島湾の開発を考えました。そして初めのうちは河川の運んだ土砂が堆積してできた干潟の中でも干拓の容易な部分から少しずつ干拓し、海吉新田、山崎新田、福泊新田などの小規模な新田を作ってきました。やがて堤防の築造や排水を主とした干拓技術の難点もしだいに克服し、その後はやや大規模な益野新田や松崎新田、そして民営の金岡新田などが、児島湾へ突き出すように、次々と作られていきました。しかし農民の人口増加による土地不足と、米の収穫高増大による岡山藩の財政安定のためには、まだ不十分であり、より広大な新田を作る必要がありました。このため思い切った政策として、当時児島湾で急速に形成されていた広大な干潟を利用し、そこを一気に干拓することで広大な新田を作ることとなりました。この干潟は、現在の沖新田の東西をそれぞれ流れる吉井川、旭川の河口部分に形成された三角州が巨大化したもので、そのおもな原因は、両河川が中国山地から運び出すたたら製鉄のための砂鉄採集の土砂であると考えられています。
 沖新田の干拓計画は、当時大変な技術を必要とするものでした。特に用水の問題と、堤防の築造、海面 より低くなる地点での水田の形成は、重要な問題でした。そのため、津田永忠は沖新田形成までに、いくつかのモデルとなる新田を実際につくりました。まず、沖新田のモデルとして、幸島新田を干拓しました。幸島新田では、沖に点在する島を堤防で繋いで、新田の範囲としました。また用水は、新田のすぐ脇を通 る吉井川の水を、約20・上流の坂根井堰から専用の用水路となる「備前大用水」を開削し、また排水は上流から流れ込む千町川を延長して新田に大水尾を作りました。水田にも「堀田」を導入して、低湿地水田での稲作を可能にしました。
 この幸島新田での経験や技術を生かし、沖新田の干拓に取り組むのですが、巨大な土地の干拓工事には慎重論も出たようで、ひとまず倉田新田を形成するとともに、吉井川から倉安川を開削してこの新田の用水を確保し、沖新田干拓への一歩を示しました。
 沖新田の形成にあたって、堤防は津田永忠の綿密な測量と計画によって、当時干潟の形成されていた最大部分を活用し、堤防の築造にあたっても綿密なものであったと推測されています。用水の確保も、新田全体を統一した水源で確保するのではなく、吉井川、砂川、倉安川、祇園用水(旭川上流から開削してきた用水)など、最大限に利用しやすく、かつ新鮮な真水を得ることができるような水利が作られました。低湿地についても、干潟として形成されていた土地を十分に生かして、低位 部には河川や用水を通し、できるだけ堀田の必要が最小限となるよう、工夫がされています。
 このように沖新田の築造では、堤防築造・用水・低湿地などの問題を経験から乗り越え、当時日本最大の干拓地・沖新田が誕生したのです。

▼ おもな参考文献
・ 斉藤一興編『池田家履歴略記』(寛政年間頃執筆)日本文教出版、1963年。
・ 小林久磨雄編『幸島村史』幸島村史刊行会、1972年。
・ 岡山大学附属図書館『池田家文庫等貴重資料展 津田永忠の用水開発事業とその歴史的背景』岡山大学附属図書館、1981年。
・ 三蟠村誌編纂委員会編『三蟠村誌』三蟠村誌刊行委員会、1982年。
・ 建設省中国地方建設局岡山河川工事事務所編『百間川改修誌』、建設省中国地方建設局岡山河川工事事務所、1985年。

▼第3回 プロローグ3 近世の干拓新田地帯

児島湾を陸地に変えて農業を行なうという考えは、古く奈良時代には始まっていたものとされています。
 しかし本格的な農地への取り組みは、江戸時代になってからです。近世の児島湾干拓は、大きく分けて江戸時代前期を中心とする時期と、後期をそれとする2つの時期に区別 できます。特に前期の干拓は、幕藩体制の確立と、それに伴う岡山藩の経営のために新田を作ることが急がれたためで、岡山藩直轄の新田開発と、商人中心の開発がありました。岡山藩では、領内の干拓可能な地点から順次進められ、技術的確立によってしだいに広大な干拓となっていきます。金岡新田、倉田新田、幸島新田と進み、最後に沖新田の完成となります。

 こうした児島湾の干拓を進めた理由として、岡山平野はもともと、大変に平野の少ない土地でした。そのため、海に面 した干潟を干拓することで、水田となる土地を増やしていこうと考えられたのです。そして最も有効な方法として、吉井川や旭川、高梁川などの大きな河川の河口部分に形成された、広大な砂州を利用することが進められました。

 すなわち、こうした河口に面した場所では、
  1 山から流されてきた土砂の堆積が主で、土地が肥沃なこと
  2 遠浅な地形で、干拓面積の広いこと
  3 真水の供給が比較的容易なこと
  4 水運に都合がよいこと
などが挙げられるでしょう。

 一方で、特に児島湾干拓について問題となった点としては、
  1 干拓地となる干潟での漁業権および漁業補償
  2 水利権
  3 塩害・水害などの対策
  4 国境(備前・備中の国境を干拓地のどこに置くか)
などです。

 江戸時代前期の干拓地・沖新田の場合でみていくと、特に1から3の問題については、岡山藩によって相当な配慮がなされていました。沖新田干拓前、その干潟は児島半島北部の漁師が権利を持つ漁場でした。干拓に当たっては、藩への要望や、藩からの補償案などの記録が多くみられます。水利権についても、河川上流地域の排水が干拓地域の生活用水になるため、たびたび水争いが起こっています。塩害・水害の問題はなお深刻で、干拓地に住む人々は、つねに生活の中で相対する問題でした。

 こうした問題は、ただ沖新田に限らず、干拓地にとってはどこでも生じる問題でもありました。これに加えて江戸時代後期以降、興除新田の干拓計画を持った際には、備前と備中の国境に位 置することから論争としてたびたび問題となり、結局幕府の仲裁によってようやく干拓工事を始めることが出来たのです。このように近世後期の干拓は、主に児島湾の奥部、備中領で進められます。興除新田をメインとして、児島湾周辺に小規模な新田が干拓されます。

 ちなみに明治時代以降の児島湾干拓は、岡山県の行政範囲となったことと、干拓技術の近代化によって大きく変化しました。江戸時代には上に挙げたさまざまな制約のほかに、干拓技術の面 で不可能とされた児島湾1区から7区の干拓が特筆されます。この1区から7区というのは、児島湾の最奥部に位 置し、これまでの湾内の干拓地に比べて、笹ヶ瀬川、倉敷川といった流量 の少ない河川の河口付近であるため土砂の堆積も少なく、また湾の奥まった部分であるために大量 の泥が堆積しており、重量のある堤防をこの上に築造するのは、大変な困難でありました。明治14(1881)年に岡山県は、明治政府の招聘した当時33歳のオランダ人技師ムルデルに、児島湾干拓の計画を要請し、彼は「児島湾開墾復命書」を作成しました。内容は地理的な干拓の利害のみならず、工事の手順や工法、河川上流域の砂防や港湾の配置の提言等幅広いもので、これは近代の児島湾干拓の原点となりました。岡山県はこれを受けて、大阪の実業家・藤田伝三郎が投資することで、1899年に始まった干拓工事は戦時中の中断を経て、1963年まで行なわれ、総面 積約5,617ヘクタールの土地と、そこをまかなうための淡水湖(児島湖)約1,100ヘクタールおよびその締切堤防が作られました。

 こうして岡山平野全体の可耕地面積は、近世初頭には約5,000ヘクタールといわれていたものが、現在では約25,000ヘクタールといわれ、児島湾を含めた近世以後の大干拓工事によって、広大な水田が作り上げられました。

おもな参考文献
 永山卯三郎『岡山県農地史』昭和27年(昭和54年復刊)
 大串石蔵「児島湾干拓の今昔」『測量』第12巻第10号、昭和37年
 岡山県土地改良事業団体連合会編『岡山県農業土木史』昭和41年
 『児島湾沿岸農業水利事業概要書』農林省児島湾沿岸農業水利事業所、昭和28年
 ムルデル(建設省編)『日本列島の三つの海峡』建設省岡山河川工事事務所、1993年
 定兼 学『近世の生活文化史〈地域の諸問題〉』清文堂出版、1999年br>
▼第2回 プロローグ2 児島湾の漁業

朝や夕方の風景が美しい児島湾。一日の中でも刻々とその色彩 は変化していきます。
 児島湾は、瀬戸内海とつながる広い湾です。一方で、中国山地から発した吉井川や旭川の終点でもあります。そうした海水と真水の合わさった汽水域では、昔から多くの幸に恵まれてきました。また広大な湾であったため、潮流による干満の差も大きく、それもこうした生命の営みをより豊かにしたものでした。
 急激な近代化・工業化がおし進められた昭和30年代より前、児島湾一帯ではいろいろな漁業風景が見られました。
 児島湾の北部では、明治時代半ば以降、海苔の養殖が盛んでした。湾の北部は水深が比較的浅く、冬場にはそこに女竹(めだけ)を挿しておくと、海苔の胞子が竹の表面 に付着し、また潮の干満の程よさも手伝って、良質な海苔が採集できました。最盛期には沿岸の漁師さんたち十数軒が海苔の養殖をしており、全国的にもよく知られたものでした。昭和時代初期、沖新田の堤防付近では、夜ランプの光に向かって浅瀬に押し寄せる「べか」(ベイカのこと)の群れを、大きな「すくい網」(指手網=さであみ)で掬い上げる「べかたき網漁」が盛んでした。
 児島湾の南部では、江戸時代以来「かしき網漁」が盛んでした。かしき網とは、湾の中でも深い、水の通 る部分(水尾筋=みおすじ)を通る魚を狙い、そこに巨大な樫の木の杭を2本打ち込んで、その樫の木に巨大な網を取り付け、満潮、干潮の潮の流れに乗って動く魚の群れを、文字どおり「一網打尽」にして漁をする方法です。江戸時代の新田開発以前より、この漁業権は代々決まっており、網の位 置も厳しく取り決められていました。おもにアミ(アミえび)が多く、普通 の魚も大量に取れていました。
 児島湾の奥では、広大な干潟が形成され、川から湾に注ぐその水尾筋ではかしき網漁が、また干潟の岩場では天然の牡蠣の漁、干潟ではシャコやチンダイ貝の漁が盛んに行なわれていました。ここでは、かしき網漁と牡蠣の漁は、それぞれ専門の漁業者が行なっていましたが、シャコやチンダイ貝などの漁は一般 の人や子供たちがしていました。干潟では、潟板と呼ばれる潟スキーや、獲物を入れる引き樽などをそれぞれ利用し、多くの獲物が取れたようです。
 こうした豊かな児島湾の漁業風景も、昭和30年代を境に、急速に変化していきました。
 明治時代以降、児島湾の奥で進められていた干拓事業は、昭和38(1963)年の事業完成と、児島湾締切堤防設置による淡水化(1959年)によって児島湾干拓全体の完成となりました。しかしそれに伴う児島湾の縮小と、漁場の縮小・環境変化は、単に変化したというのみでなく、そこで漁業をして生活をしていくことが不可能になるほど、深刻な問題となったのです。 
 児島湾は縮小した結果、潮の干満が極度に少なくなり、魚の回遊や湾の浄化作用は極度に低下しました。それに加え、工業排水や生活排水の垂れ流しは、児島湾の水面 を茶色にし、不毛の湾へと変化させました。
 海苔の養殖は出来なくなり、現在は児島湾を瀬戸内海に出た犬島沖で、児島湾の漁師さんたちは操業しています。べかたき網漁は、べか自体がいなくなったため、現在は行なわれていません。かしき網漁も、昭和20年代に終わりました。干潟は浚渫され、チンダイ貝は姿を消しました。現在は、昔干拓地の中にあった四つ手網小屋が、以前べかたき網漁をしていた堤防に50数軒並び、それは観光用として貸し出されているに過ぎません。
 児島湾は、それでもしだいに昔の姿の片鱗を見せ始めています。現在となっては自然の潮流を失ってしまったため、完全に昔の豊かな児島湾に戻すことは出来ません。また、自然に暮らす魚たちすべてを呼び戻すことは不可能です。しかし工業・生活排水の浄化や、環境への関心が高まり、再び美しい水面 へとなりつつあります。
 児島湾は、岡山平野に暮らす人々にとって、自然と共存していく上でのバロメーターのような存在といっても過言ではないでしょう。児島湾が示した教訓を、日本各地で行なわれている国土開発にも生かしてほしいものです。

おもな参考文献
 大串石蔵 「岡山藩の干拓と漁業補償」『農業土木』第153号、1962年。    
 湯浅照弘 『岡山県漁撈習俗誌』山陽図書出版、1974年。    
 湯浅照弘 『児島湾の漁民文化』日本経済評論社、1983年。    
 定兼 学 『近世の生活文化史〈地域の諸問題〉』清文堂出版、1999年。

▼第1回 プロローグ1 児島湾

児島湾。瀬戸内の温暖な気候に包まれる岡山県南部にあるこの湾は、半世紀前にはとても豊かな漁場であり、自然の中に溶け込んだような人々の生活を支える、静かでおだやかな海でした。
 巨大な湾には、中国山地から延々とつながる吉井川、旭川といった大きな川、そして笹ヶ瀬川や砂川などの、小さいながらもこの地に住む人々の生活になくてはならない水の流れが、岡山平野を通 り抜け、注ぎ込んでいます。幾万人をも支えるこれらの川は、児島湾に注ぎ、やがて瀬戸内海へと流れ出していきます。
 また児島湾は昔、瀬戸内海を旅する人々にとって、岡山や西大寺、津山といった、岡山県の主要な街へ行くために通 る、交通の要所でもありました。そして川とともに、この地に住む人々の経済をも支えていました。
児島湾は「湾」であるため、普通の海に比べて、潮の満ち引きも大きく、そのため瀬戸内海からは多くの魚が入り、一方では海苔の一大産地として、多くの恵みを与えてくれていました。
 しかし現在、昔に見られた児島湾の風景の多くは失われてしまいました。
 昭和30年代以降の生活排水や工業排水による汚濁、児島湾内の締め切り堤防設置による潮流の停滞、児島湾周辺の堤防や防波堤の相次ぐコンクリート化などは、そこに棲む自然生物を消滅させ、そこに住む人々の生活も変えていきました。経済的な開発や発展の中で、人々は自然の運命をも変えることができるほどに進化したものの、その母なる自然であり、岡山に住む人々にとって最も身近な児島湾は、その自然浄化作用をはるかに超え、単なる排水のはけ口となってしまいました。
昭和から平成に変わる頃、茶色く濁った魚のいない児島湾、汚泥が溜まって悪臭やガスを発生する児島湖の姿を嘆いた人たちは、今一度、美しい児島湾を取り戻そうと活動を始めました。現在、こうした人たちの呼びかけは、児島湾の恩寵を受ける岡山の人々一人ひとりの願いとなって、児島湾をふたたび静かな海へと導いています。

 児島湾はもともと、湾ではなく、瀬戸内海の流れの中にあった海峡でした。平家物語には、現在児島湾内の陸地深くに位 置する地域で行なわれた「藤戸の合戦」について、この海峡を馬に乗って渡る佐々木三郎盛綱の姿が活き活きと描かれています。やがて戦国時代以降、それまで平野の少なかった岡山での耕地面 積の拡大と、それによる収穫高の増加を見込んだ権力者たちは、河川の堆積によって遠浅となった児島湾を農地へ変換すべく、多くの知恵を絞り、広大な水田を獲得しました。そして現在、日本三大干拓地の一つとして、児島湾とともに、この平野に暮らす人々の姿があるのです。
この連載では、こうした児島湾に暮らす人々の姿や、児島湾の干拓地に命を賭けた、名もない人々の生きざまを少しずつ、伝えていきたいと考えています。



>>最新の回 >第2章 >第1章