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>>児島湾の人と干拓  −沖新田の風景−

更新は月1回。 順次更新していきますので、読み逃しなく!

執筆者紹介=安倉 清博(あくら きよひろ)

1971(昭和46)年9月、岡山県岡山市生まれ。
日本大学通信教育部文理学部史学専攻卒業。考古学。
岡山大学文部事務官、岡山県古代吉備文化財センター調査員などを経て、
現在は岡山市教育委員会嘱託(政田民俗資料担当)。

論文
「古墳時代の首長と鉄生産―吉備南部平野を中心に―」 (『史叢』第61号 1999年)
「製鉄炉と製炭窯―八ツ目鰻考―」 (『古代吉備』第22集 2000年)
『政田を知ろうふるさとマップ』(編著、2001年)

趣味
読書、ドライブ、音楽(クラシック)鑑賞など。

>>全体の構成(スケジュール)はこちら

▼第20回 干拓地・沖新田の漁業風景 べかたき網
▼第19回 第3章 干拓地・沖新田の農業風景3 イ草
▼第18回 第3章 干拓地・沖新田の農業風景2 用水と水替え
▼第17回 第3章 干拓地・沖新田の農業風景1 堀田

>>第2章 >第1章 >プロローグ

▼第20回 干拓地・沖新田の漁業風景 べかたき網

 

政田民俗資料館には、昭和12年に撮影された1枚の写真があります。それは夏の夜に児島湾の水面に向けて、沖新田の堤防上から無数の光が当てられている様子です。光は堤防上へ一直線に連なり、漆黒の静けさの中にそこだけが賑わいを感じさせるような風景です。
この写真は、沖新田では「べかたき網漁」と呼ばれていた風景を撮影したもので、その始まりは明確ではないものの、昭和初年には大変盛んに行なわれた漁法です。戦後、昭和30年代には河川などの汚水や、児島湾締切堤防などによる潮流の変化などが原因とされる中で、しだいに漁獲は減少して、廃絶しました。 
このべかたき網漁は、暖かい時期の夜によく行われていました。堤防際の浅瀬にいる魚を狙って、カーバイトのガスランプの光を水面に当てることで、その光に寄って来た魚を「べかたき網」と呼ばれる、1辺が1メートルほどの三角形をした掬い網(一般に「叉手網(さであみ)」といわれる)を使って堤防上から掬い上げるもので、とくに「ベカ(ベイカ)」がよく獲れたことから、この名前が付いたようです。ベカの他にも、ママカリ(サッパ)、ツナシ(コノシロ)などが獲れ、その漁獲は時として「網が上がらないくらい」だったとも言われています。
このべかたき網漁の風景は、旧西大寺市の観光資源として「西大寺八景」(昭和28年選定)としても選ばれ、「横樋の漁火(よこひのいさりび)」として広く周知されました。「横樋」というのは、沖新田の堤防沿いにある集落名で、現在「横樋観音」などで賑わう地域ですが、ここから眺める風景が、大変に美しく、慕情的であったためにこのように言われているようです。
このべかたき網漁に代わって、昭和30年代からは「四つ手網」漁が主流となってきます。当時の様子を、『西大寺市史』(昭和55年)では次のように記録しています。
  

横樋の漁火

 児島湾に面し、桜堤として知られる横樋の堤は、昭和三十三年から改修工事が進められ、近代的な海岸線となった。
 夏の夜に、延々数キロに亘って海岸を賑わすベイカ捕りの灯りや四ツ手網の漁火が、網に踊る銀鱗と波頭に映えて呈する不夜城の様相は壮観である。(424〜425頁)
古くはべかたき網漁の漁火であったものが、昭和30年代頃からは四つ手網漁の漁火と
ともに、その景観を作り出していました。時代の変化とともに、漁火も変化していったのです。
 現在では、べかたき網漁は見られず、四つ手網漁に代わっています。児島湾北岸の沖新田一帯の四つ手網漁は、10〜20畳敷ほどの小屋を海上に張り出すように設置し、それに網が取り付いたような形状のものです。べかたき網漁に比べて網の大きさも数倍大きく、小屋の中での待ち時間の快適さも向上し、近年では観光用として、貸し出されたりもしています。しかしこの四つ手網でも、昭和後期に叫ばれた児島湾の汚染が深刻となった時期を中心に、ほとんど漁獲は上がらず、ましてべかたき網ではなおさらといった具合だったようです。近年ではまた漁獲量は少しずつ回復しつつあるようですが、以前の豊かな海と比べれば、まだまだ失われたものの多くは、戻ってきていないようです。

 参照文献
西大寺市史編集委員会編『西大寺市史』昭和55年、岡山市
津田ふるさと研究会編『ふるさと津田300年のあゆみ』平成3年、岡山市立上南公民館


▼第18回 第3章 干拓地・沖新田の農業風景2 用水と水替え

沖新田で利用される水は、基本的に上流の河川から引き込まれた用水路の水です。
まず用水については、百間川を境として東西に分けてお話しましょう。

○沖新田東手の用水
沖新田東手のうち、九蟠と金岡新田の地域には、おもに吉井川から用水が入っています。
取水地点は、現在の西大寺市街地のやや上流の鴨越(かもごし)堰で、それは鴨越用水として西大寺市街地の中心部を貫通 して、やがて金岡新田の東側を下りながら金岡新田に分流し、やがて九蟠に入り分流し、九蟠の家並みを貫通 して児島湾へ注ぎます。
沖新田東手のうち、九蟠以外の地域は、主に砂川から取水しています。砂川は沖新田干拓とともにその河口部を延長し、沖新田東手の北端部を貫流しているような姿となっています。現在は砂川の途中に砂川合同堰という近代的な堰が作られて、そこから取水されていますが、10年ほど前までは砂川に「一の堰」「二の堰」と二つの堰が築かれ、そこから幹線となる用水路へ導水し、さらに幹線用水からいくつかに分水して沖新田の東手の水田を潤していました。現在、堰は変わったものの、用水路自体は変化することなく使用されています。

〇沖新田西手の用水
沖新田西手では、およそその東半が倉安川から取水され、西半が祇園用水から取水されています。
倉安川は、沖新田の前に築かれた倉田新田への灌漑と、吉井川・旭川をつなぐ運河として、開鑿されました。取水口は吉井川の吉井水門(岡山市吉井)で、途中砂川、百間川などを経由しながら旭川へ注ぎます。
祇園用水は、旭川の上流、もとは岡山市祇園(現在は旭川対岸の岡山市玉 柏)から取水する長大な用水路で、旭川以東の市街地を貫通 して周辺の水田を灌漑しながら南流し、沖新田の西端を堤防に沿うように流れ、やがて江並(旧三蟠村)で児島湾に注いでいます。

〇用水と生活
沖新田では、用水路の水は生活していく上で必要不可欠なものでした。生活用水・農業用水ともに同じ用水路の水で全てを賄っていました。つまり、用水路の水がなくなると、沖新田の人々は農業が出来なくなるばかりか、生活が出来なくなってしまいます。ですから、用水路の水を常に確保できるように、人々には多大な苦労がありました。
用水路は川から水を得ますが、砂川は普段の流れが少なく、またこの上流地域でも水田が多く作られているため、田の水入れ時期には、自然と水不足になり勝ちです。また他の用水路も、取水する川は大きいものの、上流から生活用水・灌漑用水と少しずつ取水されると、その末端部に位 置する沖新田では、ごく僅かな水量となってしまいます。時には上流地域の排水も含まれるため、コレラや肝炎ジストマなどの伝染病の被害も多かったようです。しかし沖新田に生活をする人々は、より良い水を得ることが出来るよう、努力をしました。
毎年入梅前になると、一斉に用水路の掃除がされます。これは水路の流れを保つよう、泥や草、ゴミなどを拾い上げる作業で、この地域では「川掃除」と言われています。沖新田各所でも川掃除は行なわれますが、用水路の水を少しでも綺麗に、潤沢に得たいという人々は、上流の村までにも川掃除に出かけて行きました。
また特に夏時期に渇水などが起こると、新田の人々は上流の村へ度々願い出て、少しでも用水路に水が流されるよう、理解を求めにいきました。さらに新田内の用水も、配水を行なう樋門では、予め決められた時間配分を違わないよう、樋守をつけて厳重に管理がされ、生活が支えられていました。

〇水田への水替え
さて、水田まで届いた用水は、水田面へ水を揚げることとなります。水田への水揚げを「水替え」といい、「水を替える」とか「水替えをする」と言います。干拓地は一面 平らなため、水田面の水替えは、用水を樋門(樋板)でせき止めて水田の水口からの自然流入を基本としますが、用水面 と水田面に高低差のある水田では水車などを使用して水替えをする必要があります。人力の水替えには主に足踏みの水車が利用されていましたが、この作業で広大な水田全体を満たすには大変な重労働でした。
大正時代の終わりごろからの石油発動機の普及によって、次第にバーチカルポンプへと移行し、昭和30年代には水車での揚水作業がほとんど見られなくなりました。

▼第17回 第3章 干拓地・沖新田の農業風景1 堀田

海を干拓して作られた沖新田は、現在もその大半が0メートル以下の低地です。そこはもと海底面 であり、現在でこそ昭和30年代の嵩上げ工事で土砂を「埋立て」て新しく水田な水田が形成されましたが、それでも今なお海側に行くほど低地となり、潮止め堤防に近い地点の低位 部ではマイナス0.6〜0.7メートルの高さに水田が位置しています。
 この昭和30年代の工事が行われるまでは、とくに低湿地となった地点に「堀田(ほりた)」といわれる、この地域独特の水田形態が見られていました。堀田とは「堀上げ田」とも言われ、本来ならば水面 下に水没する土地を田として利用するため、水没地点の土を寄せ上げて畦状の長大な棚田をつくり、その最高部が水没しない高さとしたところへ田んぼ面 をつくり、稲作を行うもので、田んぼ面以外の部分は土を掘り下げられた状態で水路となります。棚田と水路の関係は、陸地に近い田んぼでは僅かな細く浅い溝から始まりますが、低位 部の田んぼへいくに従って棚田は細くなり、水路は広くなります。また棚田の高さ(あるいは水路の深さ)も、低位 部では人の背丈に近いくらいに高く(深く)なります。
 このような堀田は、日本では関東の利根川中流域の低湿地帯や、岐阜県の輪中地域、島根県の中海・宍道湖沿岸、佐賀・熊本県の有明海沿岸地域などに見られました。いずれも河川あるいは干拓地の中で農業、とくに米作りをしていくための工夫で、およそ江戸時代の中ごろに作られ始めたようです。沖新田の堀田がいつから作られ始めたのかは明らかではありませんが、1692年に干拓された当初から近年まで、土地の形態が大きく変化しているようすが見られないことから、おそらく干拓当初から堀田が存在したものと考えてよさそうです。
 では、こうした堀田での水田農業の様子を見てみましょう。
 堀田は毎年春先、3月から4月頃に堀の水を部分的に完全に排水して、堀と棚田の整備がされました。沖新田では「堀田替え」と呼ばれる、農作業のうち最も大変な仕事です。棚田に上げた土が堀の中にずり落ちてくるため、また堀の排水を改善するための作業です。
 水を抜いた堀の中に人が入り、水車や桶を使って堀を干し上げます。堀の底に溜まった泥を、「つる桶」といわれる、桶の両側上下に長い手綱を取り付けた、いわゆる「水替え桶」を使って、大人二人がその両端を引き緩めしながら、棚田の上へすくい上げます。昔は「箱鋤簾」といわれる巨大なチリトリのような木の道具を使い、3人ないし5人かがりで泥を引き上げていたようですが、効率として「つる桶」のほうが良かったのでしょう。嵩上げ工事で堀田が消滅するまで、ほとんどが「つる桶」を使用していたようです。
 「堀田替え」が終わると、人力で田を掘り、土を均し、代掻きをします。やがて堀に水を張って、6月下旬から7月にかけて田植えをします。この地域では、陸に近い堀田のない田では、冬場にイ草、または大麦・小麦・裸麦などを栽培していたため、それらの収穫の後、苗床で育てた苗を新田全体で一斉に植えていくのが一般 的でした。堀田で苗を植える際には、最初に棚田の縁から植えていくことになっていました。これは、やがて水が入った時に、棚田の端が分らなくなって、田植えや草取りなどの際に水路に転落しないようにするためです。
 その後もすべて人力での作業です。とくに低位部の堀の狭い部分は、田船での行き来で、田植えや稲刈りも田船の上からしていたようです。草取りも、稲刈り・脱穀も、田船で行き来して、作業はその田んぼで行われていました。もちろん、水路の少ない陸側の堀田では、無理に田船でいく必要もなく、場所によっては牛馬が作業の出来る場所もありました。しかし堀田での作業は基本的に、人力に頼るところが大きかったようです。
 ではなぜ、ここまでして堀田を作っていたのでしょうか。他の一般 的な農村では、ここまで大変な作業を毎年することはありません。沖新田では、もともと海底であったことから、塩害や水害には大変に悩まされた地域です。少しでも、僅かでも米を収穫をすることが農家の役目で、その僅から収穫のために人々は大変な苦労をしたのです。しかしこのように苦労をしても、稲穂が付き始めた9月頃には海の大潮のため、新田内に溜まった水が海に放流できず、海に近い堀田一体は何日も水浸かりして、「十日づかえ」「二十日づかえ」といわれるような水没時期が避けられませんでした。また台風で稲が倒れて稲穂が水没し、そこから芽が出てきて収穫にならないことも多くあり、農家は自然の怖さを肌身で感じながらも、その中で精一杯生きてきました。
 この堀田が消滅した原因は、昭和21年の南海地震の際、堀田面 が平均約60cm地盤沈下して、復旧が困難となったためで、その後最初に掲げたような嵩上げ工事がされ、現在は一面 に稲穂の実る美田となっています。
 
文献 「上南干拓」岡山県西大寺市上南土地改良区、昭和35年。



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