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>>児島湾の人と干拓  −沖新田の風景−

更新は月1回。 順次更新していきますので、読み逃しなく!

執筆者紹介=安倉 清博(あくら きよひろ)

1971(昭和46)年9月、岡山県岡山市生まれ。
日本大学通信教育部文理学部史学専攻卒業。考古学。
岡山大学文部事務官、岡山県古代吉備文化財センター調査員などを経て、
現在は岡山市教育委員会嘱託(政田民俗資料担当)。

論文
「古墳時代の首長と鉄生産―吉備南部平野を中心に―」 (『史叢』第61号 1999年)
「製鉄炉と製炭窯―八ツ目鰻考―」 (『古代吉備』第22集 2000年)
『政田を知ろうふるさとマップ』(編著、2001年)

趣味
読書、ドライブ、音楽(クラシック)鑑賞など。

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▼第26回 干拓地・沖新田の産業風景1 港と鉄道

児島湾に突き出た形の沖新田には、現在大きな港が3か所、小さな港が3か所あります。大きな港は、旭川の河口に位置する三蟠港、吉井川の河口に位置する九蟠港、そして昭和50年代に開発された新岡山港です。小さな港は、新岡山港の北側と、通称「六番川」の東部に位置する横樋港、児島湾の鳩島の北側に位置する港です。このうち、新岡山港や児島湾大橋ができるまで、主に小規模な荷揚げや旅客運送に利用された港は、三蟠港と九蟠港で、ほかは漁船の係留港としての役割があります。もちろん、三蟠港や九蟠港には現在も漁船は係留されていますし、昔は横樋港から犬島や京橋などへの旅客の臨時便もあったようです。

これら新田場と他の地域を直接結ぶ交通網である港は、いつ頃できたのでしょうか。明治16年に刊行された『山陽吉備之魁』には、三蟠港の沖に蒸気船が停泊し、港には人力車が並び、旅館や問屋が並ぶ、当時の華やいだ風景が描かれています。また同年刊行の『山陽吉備之魁 上道郡之部』では、九蟠港の様子も描かれています。どちらも当時、四国や関西発着の瀬戸内海航路から岡山へ至る経路として、重要な位置を占めていました。その背景として、旭川、吉井川とも土砂の堆積が多く、児島湾内もかなり浅かったようで、瀬戸内海航路を行く蒸気船は児島湾内の港に接岸できませんでした。そのため、旅客は児島湾の入口まで蒸気船で来て、艀(はしけ)に乗り換えて九蟠港、あるいは三蟠港へ上陸し、陸路西大寺あるいは岡山へ行ったようです。物流も同様だったようで、岡山へは三蟠港が、西大寺・津山方面には九蟠から少し上流の金岡・西大寺が拠点だったようです。

この三蟠港、九蟠港の開港時期について郷土史関係の本などでは、沖新田(1694年入植開始)ができたと同時、ないしは直後、というように書かれています。地元ではそのように言い伝えられているようですが、明確な資料は残っていません。岡山市立中央図書館にある「沖新田東西之図」(文政元=1818年製作)には、沖新田の村々の家並みや用水路、特に新田の家の瓦屋根や茅葺屋根、用水の底樋や樋門、水門や堤防の石垣まで描かれていますが、港はどこにも描かれていません。たまたま描かれていないのではなく、なかったから描かれていないようです。ということは、地元で言われているように、沖新田完成時の港の有無は分らないものの、1818年時点で港はなく、現在沖新田に見られる港は、それ以降に作られたものであるということができるでしょう。

三蟠港は明治3年から蒸気船が発着するようになったとされ、同18年には、岡山訪問の明治天皇が上陸しています。このときも、蒸気船は児島湾の沖に停泊し、艀に乗り換えて三蟠港に上陸、人力車で岡山市街地へ移動しています。これを機に、三蟠港は瀬戸内海航路の岡山の玄関口として、栄えようとしていました。しかし明治42(1909)年の宇野港開港と、翌年の宇野線の開通は、瀬戸内海航路として三蟠港よりも立地・条件ともに有利な宇野港へと人・物流ともに移動しました。三蟠港は、距離的には岡山市街地に近いものの、やはり航路の拡大や大型船の就航には不向きだったのです。  

この状況を打開して、今一度三蟠港を復活させようと、大正4(1915)年には岡山市街地(桜橋。のち国清寺まで延長)と三蟠港間に、三蟠軽便鉄道を開通させ、再起を図りました。しかし大型船や航路が減少していく中で、その流れを変えることはできませんでした。三蟠軽便鉄道は昭和6(1931)年に突然閉業を宣告し、廃止になりました。以後、バス輸送へと代わりましたが、昭和58(1983)年に児島湾大橋が開通するまで、三蟠港は児島湾内の行き来に利用される渡船や、小型の漁船の係留港としての役割があったに過ぎませんでした。

一方、九蟠港も、大型船の着岸ができなかったことや、近隣商業地である西大寺との陸上交通の利便性の悪さ、江戸時代以降、近くの金岡や西大寺が荷揚げ場として整備されていたことなどから、それらを超えるほどの位置付けもなされませんでした。むしろ、児島湾内の対岸(小串・八浜)間の旅客輸送で、西大寺側の拠点の一つとしてささやかな港町が形成されたに過ぎませんでした。しかし、特に戦前、毎年2月に行われる西大寺の裸祭りの時には、この九蟠港にも多くの観光客が上陸し、そのときばかりは大変な賑わいだったようですが、やはり通過地点といった様相だったようです。戦後も渡船がありましたが、ここも児島湾大橋の開通を機に閉業され、現在は小さな港町となっています。

参照文献

川崎源太郎『山陽吉備之魁』『山陽吉備之魁 上道郡之部』いずれも明治16年刊(岡山市立中央図書館所蔵)

三蟠村誌編集委員会『三蟠村誌』昭和57年

芳賀修「岡山県における局地鉄道の地理学的研究の動向」『吉備地方文化研究』第8号、1996年
宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くV』JTB、1997年


▼第25回 干拓地・沖新田の漁業風景4 現代の「四つ手網」

児島湾に面した沖新田の堤防上には、「四つ手網」といわれる小屋掛けの施設がいくつもあります。

堤防際と約4メートル沖のそれぞれに約180p間隔で3本のコンクリート杭が並び、その上に約10畳程度の小屋が建っています。小屋の上方には、長さ約10メートルのはしご状の腕木が立っており、腕木の先に取り付けられた滑車には引き綱が通されて、水面に位置する綱の先には約8メートル四方の網が、竹竿で十字形に張られています。夜になると、網の上部に付けられた集魚灯の光を目指して、小魚が集まってきます。それを大きな網で下からすくい上げ、魚を獲るものです。

四つ手網はいつごろからこの地域で始められたものか不明ですが、昭和初期には多くの四つ手網小屋が、堤防の陸地側の六番川や潮廻しなどにあったことが、当時の写真や証言で分かっています。沖新田近くの吉井川などでは、舟の艫(とも。舟尾)におよそ2m四方の四つ手網を付けて、移動しながら「シロウオ」などの漁をする様子が見られますが、沖新田の四つ手網は小屋があり、常に固定された位置での漁業となります。

もともと堤防より陸地側の内水面に作られていた四つ手網でしたが、昭和30年代には沖新田も生活や農業の近代化が進み、上水道の敷設や、水田のかさ上げ工事に伴う堀田の消滅と、その後の大型機械化による農作業の時代となりました。用水には生活・工業排水などが流されるようになり、しだいに汚染が進んでいきました。その結果、用水路の流末になる潮廻しや六番川などは極度に汚染され、それに伴って漁獲量は極端に減少したといわれています。

内水面での漁獲が減少し、四つ手網が生計の大きな基となる人々にとっては死活問題でした。その結果、起死回生の策として、これまで四つ手網のあった内水面側から、潮留め堤防を挟んだ児島湾側に四つ手網を向けることになりました。これは漁獲を狙うのではなく、観光用の小屋としての考えがありました。

児島湾の海底は、湾の南側に沿って深い水尾筋があり、大型のフェリーや貨物船はそこを航行することになっています。昭和20年代までは、この水尾筋に「樫木網(かしきあみ)」とよばれる、大掛かりな袋網を取り付けて漁業がされていました。一方、沖新田の堤防のある児島湾の北岸側は、大型船が通れないほどのかなり浅い海底です。幕末、そして明治時代以降は、こうした場所で海苔の養殖が行なわれたり、沖新田堤防では「べかたき網」漁が盛んに行われていましたが、浅瀬のため大型の魚が来ることはめったにありません。しかし、このあたりは児島湾を回遊する小型魚が多く、むしろ四つ手網のような漁業は適したものといえます。

四つ手網は春から秋にかけてがシーズンとされ、特に夏にはベカ(ベイカ)、ママカリ、小エビなどが獲れます。夏の週末などは、どの四つ手網も予約でいっぱいとなり、夜間の児島湾に光る小屋の灯りは、現代生活の中の静けささえ感じさせるものがあります。
平成12年ごろには百間川河口から九蟠地区にかけて、54棟の四つ手網小屋が立ち並んでいましたが、平成16年の台風16号の直撃によって、およそ半分の小屋が海に流され、残った小屋もほぼすべてが使用不能になりました。しかし人々の思いから、現在は約24棟の小屋が復旧され、貸し出されているものもあります。この四つ手網小屋は漁業者個人の設置によるもので、一棟を建てるのにおよそ200〜300万円かかるといわれ、漁業者の高齢化や、設置後の維持整備などを含めると、なかなかすべてを復旧することは困難な様子です。


▼第24回 干拓地・沖新田の漁業風景 べかたき網

政田民俗資料館には、昭和12年に撮影された1枚の写真があります。それは夏の夜に児島湾の水面に向けて、沖新田の堤防上から無数の光が当てられている様子です。光は堤防上へ一直線に連なり、漆黒の静けさの中にそこだけが賑わいを感じさせるような風景です。
この写真は、沖新田では「べかたき網漁」と呼ばれていた風景を撮影したもので、その始まりは明確ではないものの、昭和初年には大変盛んに行なわれた漁法です。戦後、昭和30年代には河川などの汚水や、児島湾締切堤防などによる潮流の変化などが原因とされる中で、しだいに漁獲は減少して、廃絶しました。 
このべかたき網漁は、暖かい時期の夜によく行われていました。堤防際の浅瀬にいる魚を狙って、カーバイトのガスランプの光を水面に当てることで、その光に寄って来た魚を「べかたき網」と呼ばれる、1辺が1メートルほどの三角形をした掬い網(一般に「叉手網(さであみ)」といわれる)を使って堤防上から掬い上げるもので、とくに「ベカ(ベイカ)」がよく獲れたことから、この名前が付いたようです。ベカの他にも、ママカリ(サッパ)、ツナシ(コノシロ)などが獲れ、その漁獲は時として「網が上がらないくらい」だったとも言われています。
このべかたき網漁の風景は、旧西大寺市の観光資源として「西大寺八景」(昭和28年選定)としても選ばれ、「横樋の漁火(よこひのいさりび)」として広く周知されました。「横樋」というのは、沖新田の堤防沿いにある集落名で、現在「横樋観音」などで賑わう地域ですが、ここから眺める風景が、大変に美しく、慕情的であったためにこのように言われているようです。
このべかたき網漁に代わって、昭和30年代からは「四つ手網」漁が主流となってきます。当時の様子を、『西大寺市史』(昭和55年)では次のように記録しています。
  

横樋の漁火

 児島湾に面し、桜堤として知られる横樋の堤は、昭和三十三年から改修工事が進められ、近代的な海岸線となった。
 夏の夜に、延々数キロに亘って海岸を賑わすベイカ捕りの灯りや四ツ手網の漁火が、網に踊る銀鱗と波頭に映えて呈する不夜城の様相は壮観である。(424〜425頁)
古くはべかたき網漁の漁火であったものが、昭和30年代頃からは四つ手網漁の漁火と
ともに、その景観を作り出していました。時代の変化とともに、漁火も変化していったのです。
 現在では、べかたき網漁は見られず、四つ手網漁に代わっています。児島湾北岸の沖新田一帯の四つ手網漁は、10〜20畳敷ほどの小屋を海上に張り出すように設置し、それに網が取り付いたような形状のものです。べかたき網漁に比べて網の大きさも数倍大きく、小屋の中での待ち時間の快適さも向上し、近年では観光用として、貸し出されたりもしています。しかしこの四つ手網でも、昭和後期に叫ばれた児島湾の汚染が深刻となった時期を中心に、ほとんど漁獲は上がらず、ましてべかたき網ではなおさらといった具合だったようです。近年ではまた漁獲量は少しずつ回復しつつあるようですが、以前の豊かな海と比べれば、まだまだ失われたものの多くは、戻ってきていないようです。

 参照文献
西大寺市史編集委員会編『西大寺市史』昭和55年、岡山市
津田ふるさと研究会編『ふるさと津田300年のあゆみ』平成3年、岡山市立上南公民館


▼第23回 干拓地・沖新田の漁業風景3 潮廻し・四番川・六番川など

沖新田は、元禄5年(1692)の開発当初から、満潮時にはそのほとんどの地点が水没するような干潟に作られたものと考えられます。そうした土地で水田を経営していくためには、用水(生活用水・灌漑用水)と排水の問題の解決が重要になります。用水については、上流の河川や村々の余水を利用することで解決ができますが、それらが沖新田を潤し、やがて児島湾に排水される段階となると、大きな知恵と技術が必要になります。まして、もともと海底を干し上げた土地で、堤防内に溜まった真水を海水面の干潮時にあわせて排水するとしても、かなり内水面を高くしておかなければ、海水が流入してしまいます。

このため、沖新田では百間川の河口部分を大きく広げ、そこに大量の真水が湛水できるように「大水尾(おおみお)」(別名「五番川」)をつくり、その東西には沖新田の遊水地として「四番川」「六番川」を設けました。そうすることで、細々とした真水を海面に流すよりも、大きく貯めた真水を一気に流すことで海水の侵入を少なくし、また水田部分の用水樋門の管理を容易にする目的があったようです。そして堤防内に浸み出てくる塩分を除去するためと、各用水路の流末の水を四番川・六番川に集合させるために、堤防の陸側に沿って「潮廻し」とよばれる排水路を作っています。

こうした真水の湛水を主とした四番川・六番川、そしてそこに至る潮廻しには、多くの魚類がいました。フナ・コイ・ナマズ・ボラなどです。そうした魚は、沖新田に住む人々にとっての貴重なタンパク源として重宝されていました。

前回でも述べたように、沖新田に住む人々には、児島湾での漁業権がなかったようです。ですから、海の魚を自由に取ることはできず、一方で遊水地や用水路などの魚はいくらかの決まりはあったものの、日々の食事に必要な程度は自由に捕れていたようです。

潮止め堤防の陸側には四つ手網小屋が設置されていました。主に堤防の樋門の管理者(「樋守」といいます)が、副業的に行なっていた場合が多かったようです。現在の四つ手網は児島湾に面していますが、昭和30年代は全て陸側にありました。五番川(百間川)、六番川、潮廻しなどでは、ボラやエビなどが良く捕れ、時には網が上がらないので小屋の下から舟で網の中の獲物を取り上げていたこともあったといわれています。新鮮なボラはすぐに刺身にして、ごちそうとして喜ばれていたそうです。

砂川や百間川では、「蟹籠(かにかご)」とよばれる仕掛けで蟹を取ったり、舟の上から長い柄のついた「鰻掻き」で水底の泥に潜っているウナギを引っ掛けて捕まえたり、「投網(とあみ)」でフナやコイなどを捕っていました。特に冬に捕れるフナは、干拓地ならではのかけ飯といわれる「フナめし」の主要な材料として、ミンチにして根菜類とともに煮込まれ、どんぶり飯にして親しまれていました。

近年は六番川が60ヘクタールのうち40ヘクタールが埋め立てられ、潮廻しもコンクリートなどの護岸が整備され、旧来の自然豊かな水辺の景観は大きく変化しました。漁業も変化し、四つ手網は児島湾に、川の漁も砂州や草場がなくなったことで、仕掛けや舟もみられなくなってきました。魚の個体数の増減は分かりませんが、川の魚が以前ほど食卓に上がることもなくなりました。


▼第22回 干拓地・沖新田の漁業風景2 用水路・堀田

沖新田は、もともと児島湾の干潟の沖に堤防を作り、潮留めをしてつくられた新田です。沖新田ができる以前、この干潟は児島湾沿岸の村々―浜野村、平井村、金岡村、中野村、八浜村、郡村、北浦村、宮浦村、阿津村、小串村―を中心とした広大な漁場でした。しかしそこを岡山藩が陸地化することで、それら漁村の生計が成り立たなくなってしまいます。そこで、元禄4年(1691)、沖新田開発に先だって、岡山藩はこれらの漁村に「漁業減之事」という、干拓によって漁場が失われ、漁獲量が減少することに対しての村々の意向調査をしています。村々からの回答では、およそ漁獲高は確保できるとしていますが、中には漁獲が減少した際には新田地を分けてほしい、としている村もあります。これらは漁場の権利、とくに村々に割り当てられた年貢貢納の義務と引き換えに、村の人々の生きていく権利を主張していることが注目されます。

そうした経緯から、沖新田に住む人々には江戸時代をとおして基本的に児島湾での漁業権は認められていなかったようです。児島湾の漁法として有名な「樫木網漁(かしきあみりょう)」や、「青江のうなぎ」と呼ばれる児島湾の特産品などは、旧来の漁場を持つ村の権利として引き継がれていました。また、江戸時代末に児島湾内で沖新田の人々が試みた海苔の養殖でも、幕府への献上品になったほどのものでさえ、他の漁業の邪魔になることなどから中止に追い込まれています。

そうしたことから、沖新田に住む人々にとって、海が目の前にありながらも、なかなか海の魚を口にする機会はなかったようです。一方で沖新田には、砂川や百間川、新田を縦横に走る用水路(生活用水・灌漑用水)、昭和30年代まで見られた低湿地特有の「堀田」など、多くの水面がありました。

新田地帯の水面は、児島湾に面した堤防よりも陸側は全て塩分を含まない真水です。大潮の時期になると、潮留め堤防付近ではわずかながら塩分の混ざった水が入るようになり、人びとは海水を「辛い水」、真水を「甘い水」といって、「今日は少し辛い」、「甘い水を貰いに行く」といっていました。よって、新田地帯のほとんどの水は「甘い水」です。

さて、こうした用水路や堀田にも、昭和30年代までは多くの魚が住んでいました。フナ、コイ、ズガニ、ナマズ、ウナギなどです。沖新田に住む人々は、これらを貴重なタンパク源として、よく捕っていました。沖新田の内水面は、そこに住む人々や樋門などを管理する人の判断や、くじ引き、入札などで網や仕掛けを設置していました。

用水路では、田に水を入れるために樋門や樋板を設置する部分に、灌漑用水をあまり使わない春や秋には「ふせぎ」といわれる竹網を入れて用水路をさえぎるとともに、その一部に「胴尻」といわれる竹籠を設置します。春は用水路を下る魚が、秋は用水路を上る魚がそこで捕まえられました。これは誰でも設置できたわけでなく、樋門の管理者の「特権」のようなものだったようです。

堀田では、夏の時期には子どもたちが、釣り針を取り付けた2メートルくらいの長さの凧糸を竹べらに巻き付け、ミミズなどを餌にして堀田へ仕掛けておきます。竹べらは田の岸に差し、餌の付いた針は水路(クリーク)に投げ入れておきます。一人およそ100本ほどを投げ入れ、翌朝、それを順番にたぐっていくと、およそ100本に2・3本の割合で、ウナギが掛かっていました。子ども達の楽しい遊びでした。また春に行われる「堀田替え」では、堀の水を抜いて田を整備する際、堀の中のフやウナギを競うようにして捕っていたそうです。

干拓の歴史は、そこに住む人々の漁業権や生活のあり方にも大きな影響を与えていたのです。

参考文献 『撮要禄』巻十、文政6年(原本・岡山大学池田家文庫、昭和40年日本文教出版刊行)


▼第21回 干拓地・沖新田の農業風景5 沖新田の特産品

沖新田は、もともと水田での稲作を目的に開発されました。しかし米作りだけでは農民も余裕のある生活ができないため、米作りに影響のない範囲でいろいろな作物が栽培されました。

江戸時代から近年まで、米作りの裏作として麦の栽培が多く行われていました。大麦、小麦、裸麦など、時代によって主流や収穫高は変化していますが、おもに農家の自家用に栽培していたようです。また商品作物として、江戸時代後期には綿が栽培されていました。明治時代になると、海外からの綿花輸入に押されて綿の栽培が減少しましたが、それに代わって藺草の栽培が盛んになりました。

そうした中で、意外なものとして西瓜(スイカ)の名産地でもありました。江戸時代の地誌『備陽記』(1721年成立)には、「備前国備中国之内ヨリ出ル物品々名物之外ナリ」として、備前・備中の産物のうち、国の名物として誇るほどのものでもないが、地域の名産品として知られるものとして、「一、西瓜 上道郡沖新田ヨリ毎歳出ス唐西瓜風味宜シ」とあります。当時から、沖新田の西瓜は風味が良いとのことで人気があったようです。沖新田の西瓜は明治時代にもかなり人気があったようで、明治21年の新聞では「有名なる新田西瓜と云へるは沖新田一般に産するものにあらず。同じ新田地方にても政津村の北部なる僅々たる部分に生ずる丈にて岡山地方へ売り出す新田西瓜と云ふは贋もの多き様子なり云々」、すなわち新田西瓜として有名なものは、沖新田全体ではなく、そのうちの政津村(現在の岡山市東区政津)北部のわずかな土地で栽培されるものだけで、岡山市内へ売り出されている新田西瓜といわれているものには贋物が多いそうだ、ということが書かれています。現在は、西瓜の名産地として知られた政津北部で尋ねてみても、だれもそうした話はご存じありません。

また、農家の副業として、線香作りも盛んでした。いつごろ始まったものかは分かりませんが、沖新田では昭和初期におよそ30軒が生産していました。大規模な工場ではなく、老夫婦が細々と作っていたところもあったそうです。当時子どもだった人の話では、夜が明けると、そこのおばあさんが東の空を見て、西の空を見て、「今日は晴れる」と言ったら本当に晴れていた、と言われました。その日は線香を練って、型で押し出したものを台の上で乾燥させるのに適した日でもあったのです。この地域の線香は、南九州のタブの木の粉と、紀州(和歌山)の杉の葉の粉を取り寄せ、練って作っていたといわれています。現在でも、茶色でやや太く短い、煙のもうもうと沸き起こる、いわゆる「岡山線香」として、寺社参拝で見られる形のものです。沖新田では平成に入って最後の1軒が閉鎖をして、今は線香は作られていません。

特産品として児島湾の海苔も挙げられます。幕末に児島湾でも海苔の収穫ができることがわかり、明治時代中頃から本格的に栽培が始まりました。秋ごろ、沖新田に近い児島湾の浅瀬に女竹を刺しておくと、その笹の葉に海苔の胞子が付着して成長し、それを収穫するのです。海苔の収穫は冬の海での大変な作業でしたが、その良質な海苔は全国でも高い評価がありました。昭和30年代に児島湾の締切堤防が完成すると、児島湾の潮流が変化したり、河川の汚染などで海苔が栽培できなくなりました。現在は、児島湾から瀬戸内海に出た犬島沖の漁場で、海苔網を使用した養殖が行なわれています。

現在沖新田の特産品として目立ったものはないようです。沖新田では、米作りの一方で現金収入の方法として特産品が栽培・製造され、それが広く知られていました。農家の副業、あるいは土地の利を生かしたものでしたが、現在ではそうした地域の特産品も、どこか置き去りになってしまったように感じます。

参考文献
『備陽記』巻九、岡山大学池田家文庫所蔵(『備陽記』日本文教出版、昭和40年)
「山陽新報」明治21年7月21日付け記事

▼第20回 干拓地・沖新田の農業風景4 機械化農業の幕開け

沖新田をはじめとする児島湾沿岸の広大な干拓地は、日本における機械化農業の先進地として知られています。
特に明治末年以降、児島湾の干拓工事を進めた藤田組は、完成した干拓地を会社経営の藤田農場として、
広大な水田を効率よく経営していくために、アメリカ方式の農業技術を移入し、大規模な機械化農業を定着させようと工夫を進めていきました。
しかし機械化への衆目は集めたものの、アメリカの畑で使用する機械を日本の重粘質の水田で使用することは困難で、
また大農場として巨大な農業機械の輸入であったこともあり、小規模農家を主とする日本の農業に直接普及するものとはなりませんでした。

当時日本での農作業の機械化は、主に低水路の排水など定置型の大型機械などに限られ、
農用の動力としては牛馬に犂や馬車を引かせたり、あるいは明治35年に岡山県邑久郡五明で発明された回転式畜力原動機など、
非常に限られたものでした。

現在の機械化農業の直接のきっかけは、大正6年に、
沖新田の北部に続く上道郡富山村福泊(近世前期の「福泊新田」干拓地)の和田又吉氏が、
近所の精米所で使用されていた石油発動機を見て、これを水田の水揚げ作業の動力として利用できないものかと考えたことでした。
発動機を借りて水田の足踏み水車を動かしてみると、効率良く水揚げをしたことから、
発動機のより小型で可搬式のものをさがし、大正8年に2馬力のアメリカ製小型石油発動機を購入し、
使用したところ非常な成果がありました。その年に、福泊で2名1台、沖新田の光津で2名が各1台の小型石油発動機を購入し、実用化しました。

小型石油発動機を使用しての足踏み水車による水揚げは、瞬く間に児島湾沿岸の干拓地に広がりました。
干拓地は平坦な土地で、水田への自然灌漑が困難な場所が多く、足踏み水車がなくてはならないものでした。
しかし1反歩(0.1ヘクタール)あたり1〜2時間、毎日ひたすら水車を踏み続ける労働は、
真夏の作業として大変に苛酷なもので、その作業から解放される喜びはとても大きなものであったと思います。

やがて小型石油発動機は、脱穀用の足踏み式回転脱穀機や、籾摺臼を回転させる動力として、
また大正10年ごろには足踏み水車よりも揚水効率の良いバーチカルポンプが興除地区で発明され、
わずか数年で干拓地の農業動力としてなくてはならないものとなりました。

大正13年には、岡山県南部で干害が起こりましたが、旧来の足踏み水車では水深が浅すぎて水が上がらないような水路でも、
バーチカルポンプを使っていたところはわずかな水深でも効率よく水をくみ上げたことから、
特に興除地区を中心に小型石油発動機が普及しました。

小型石油発動機の普及は、こうした灌漑や脱穀・調整作業だけにはとどまりませんでした。
大正10年代には、西洋の農業用トラクターをヒントに、岡山市原尾島の西崎浩氏が独自にトラクターを開発し、
その動力としてこの小型石油発動機を搭載しました。
以後、藤田地区や興除地区の干拓地を中心とした地域で急速な開発競争がみられ、
昭和10年代にはまさに機械化の著しい地域となっていきました。

岡山でのこうした農作業に小型石油発動機を利用する意識の向上は、単に農家がその利便性を追求したからではありません 。
大正8年当時1台350円前後もした外国製の小型石油発動機は、家数軒分にもなったといわれています。
しかし岡山では、それを研究し、大正10年頃には外国のそれを模した小型石油発動機が複数の会社で製作・販売されています。
また大正10年代を中心に、岡山県農会(農協の前身)が発動機の運転会や発動機購入資金の融資をするなど
農家への強い斡旋を行った背景もあり、急速に「発動機王国」へと発展していきました。

やがて昭和初期には、零細な鉄工所や鋳物工場が次々と発動機を製造・販売するようになり、
それらは岡山駅周辺に軒を連ね、1台100円前後で販売されていました。
「岡山みやげに発動機を」ともいわれた時代でした。

しかし昭和20年6月の岡山空襲は、岡山駅周辺の発動機工場を焼き尽くし、
戦後になると全国的な発動機や農機具メーカーがディーゼルや空冷式のエンジンを次々に開発し、
技術開発競争となる中で、旧型の製造技術しか持たない岡山の発動機メーカーは沈滞し、
昭和42年に最後の地場企業が廃業して、「発動機王国」の名は消えてしまいました。

しかし機械化農業、とりわけ小型石油発動機の農業利用は、広大な干拓地での重労働から解放される手段として、
人間に代わる労力として期待し導入されたもので、その実用化や進展においては、
児島湾干拓地の存在によって形作られたものであるといっても過言ではありません。


参考文献
福田稔・細川弘美「岡山県南部における農業機械化の展開過程」『日本農業発達史』別巻下、中央公論社、昭和53年改訂版。
安倉清博「新田場と発動機―特に岡山県児島湾干拓地の大正期について―」『民具マンスリー』第44巻8号、2011年。

▼第19回 干拓地・沖新田の農業風景3 イ草

干拓地・沖新田では、稲作のほかに裏作として藺草や大麦が作られていました。今回は、藺草について述べてみましょう。

干拓地は、もともと海底であった土地を農地として利用しているので、どうしても塩分が沸いてくる状態があります。そのために用排水路などを細かに作っていますが、稲作が目的である干拓地において、それは外すことができません。しかしそれ以外に裏作として、高収益で多少の塩分が入ったとしても栽培できる植物として、藺草が選ばれたようです。

藺草は、稲が収穫を終え、脱穀・調整をしたのち俵にして出荷(供出)が終わる12月下旬から、作業が始まります。ちょうど稲作の一連の作業が終わるのと入れ違いに、藺草に移ります。水田を荒起こしして、水を張り、藺草の苗を植えていきます。当然、全て手作業でしていましたし、ゴム長靴などはない時代からですので、農家の人びとは氷の張った水田の中で、足と手を水に浸しながら、過酷な状態で作業をしていました。

5月中旬になると、藺草も大きく成長します。この頃になると、藺草が大きくなりすぎて、折れたり倒れたりするものが出てきます。それによって次々と倒れていくのを防ぐため、この時期になると藺草の「先刈り」が行われます。およそ胸の高さくらいに大きな鋏を持ち、一本一本、長くなった藺草の先を刈り取り、約45pの長さに揃える作業です。鋏は背中に固定した竿の先にぶら下げるようにして保持して、あとは藺草の海の中をひたすら、切っていく作業です。

先刈りが終わると、6月に倒伏防止の編みを張って、7月下旬、一年でもっとも暑い時期に刈り取りです。藺草を刈った後は、それをすぐに「泥染め」をして藺草の緑色を固定させ、それを道端や小学校の校庭一面に干して乾燥させます。その作業が落ち着くと、一方では藺草を刈り取った田を起こす間もなく、田植えが始まります。本来は5月中旬に田植えをしますが、7月後半となると、稲の苗もかなり大きく育っています。藺草の「後植え」では、藺草の株が残った状態で行われますが、その株は根がしっかりと張った、大変固いものです。そのため、そこへ「ひるせ」(撞木(しゅもく)ともいわれる)という、T字形の長辺の先が尖った木製の道具で土に穴を開け、そこへ稲の苗を植えていきます。

藺草は、しっかりと乾燥させたあと、長さを揃えるための選別作業を行い、束にして入札がされ、早島や倉敷のほうへ運ばれていきました。

この藺草を作っていく作業の中で、現在われわれに大変重宝される機械が発明されました。藺草の「先刈り」をする作業が、大きな鋏を使って一本一本行われていたのを、沖新田の農家の人が、この作業をどうにか楽にできないものか、と、思案していました。そこで発明されたのが、現在の「草刈り機」(刈払機)です。その発明者は、刃が高速回転することで、先刈りができることを考えていましたが、たまたま近所の歯医者へ行った際に、高速で回転する歯ブラシを見て、動力を回転運動に換える革ベルトの有用性に着眼したのです。昭和26〜28年頃、現在の草刈機の原型となる試作品を生み出しました。それは、当時自転車の原動機として用いられ始めていたBSモーターを動力として、軸の回転を先端部で革ベルトを使って水平方向の回転へと変換し、回転刃を高速回転させるものです。モーター自体が大変に重量のあるものですが、この発明は、農家の人びとの盛夏の重労働を軽減し、また畦や土手などの草刈りを、それまでの手鎌を使用するものから、より効率の良い物へと換えていきました。

沖新田の藺草は、戦後も長く続けられていましたが、昭和40年代に入ると、急激に生産が減少されました。輸入品の藺草の価格と、水田(稲作)の機械化による点が大きいものと考えられます。近年は藺草を栽培する水田も見られなくなり、その過酷な作業もしだいに忘れられようとしています。

なお、草刈り機の初期型(発明者による製品化前の試作品)は、発明者のご厚意で政田民俗資料館に寄贈・展示されています。

参照文献
鈴木尚夫『岡山の藺草』岡山文庫43、日本文教出版、1971年

▼第18回 第3章 干拓地・沖新田の農業風景2 用水と水替え

沖新田で利用される水は、基本的に上流の河川から引き込まれた用水路の水です。
まず用水については、百間川を境として東西に分けてお話しましょう。

○沖新田東手の用水
沖新田東手のうち、九蟠と金岡新田の地域には、おもに吉井川から用水が入っています。
取水地点は、現在の西大寺市街地のやや上流の鴨越(かもごし)堰で、それは鴨越用水として西大寺市街地の中心部を貫通 して、やがて金岡新田の東側を下りながら金岡新田に分流し、やがて九蟠に入り分流し、九蟠の家並みを貫通 して児島湾へ注ぎます。
沖新田東手のうち、九蟠以外の地域は、主に砂川から取水しています。砂川は沖新田干拓とともにその河口部を延長し、沖新田東手の北端部を貫流しているような姿となっています。現在は砂川の途中に砂川合同堰という近代的な堰が作られて、そこから取水されていますが、10年ほど前までは砂川に「一の堰」「二の堰」と二つの堰が築かれ、そこから幹線となる用水路へ導水し、さらに幹線用水からいくつかに分水して沖新田の東手の水田を潤していました。現在、堰は変わったものの、用水路自体は変化することなく使用されています。

〇沖新田西手の用水
沖新田西手では、およそその東半が倉安川から取水され、西半が祇園用水から取水されています。
倉安川は、沖新田の前に築かれた倉田新田への灌漑と、吉井川・旭川をつなぐ運河として、開鑿されました。取水口は吉井川の吉井水門(岡山市吉井)で、途中砂川、百間川などを経由しながら旭川へ注ぎます。
祇園用水は、旭川の上流、もとは岡山市祇園(現在は旭川対岸の岡山市玉 柏)から取水する長大な用水路で、旭川以東の市街地を貫通 して周辺の水田を灌漑しながら南流し、沖新田の西端を堤防に沿うように流れ、やがて江並(旧三蟠村)で児島湾に注いでいます。

〇用水と生活
沖新田では、用水路の水は生活していく上で必要不可欠なものでした。生活用水・農業用水ともに同じ用水路の水で全てを賄っていました。つまり、用水路の水がなくなると、沖新田の人々は農業が出来なくなるばかりか、生活が出来なくなってしまいます。ですから、用水路の水を常に確保できるように、人々には多大な苦労がありました。
用水路は川から水を得ますが、砂川は普段の流れが少なく、またこの上流地域でも水田が多く作られているため、田の水入れ時期には、自然と水不足になり勝ちです。また他の用水路も、取水する川は大きいものの、上流から生活用水・灌漑用水と少しずつ取水されると、その末端部に位 置する沖新田では、ごく僅かな水量となってしまいます。時には上流地域の排水も含まれるため、コレラや肝炎ジストマなどの伝染病の被害も多かったようです。しかし沖新田に生活をする人々は、より良い水を得ることが出来るよう、努力をしました。
毎年入梅前になると、一斉に用水路の掃除がされます。これは水路の流れを保つよう、泥や草、ゴミなどを拾い上げる作業で、この地域では「川掃除」と言われています。沖新田各所でも川掃除は行なわれますが、用水路の水を少しでも綺麗に、潤沢に得たいという人々は、上流の村までにも川掃除に出かけて行きました。
また特に夏時期に渇水などが起こると、新田の人々は上流の村へ度々願い出て、少しでも用水路に水が流されるよう、理解を求めにいきました。さらに新田内の用水も、配水を行なう樋門では、予め決められた時間配分を違わないよう、樋守をつけて厳重に管理がされ、生活が支えられていました。

〇水田への水替え
さて、水田まで届いた用水は、水田面へ水を揚げることとなります。水田への水揚げを「水替え」といい、「水を替える」とか「水替えをする」と言います。干拓地は一面 平らなため、水田面の水替えは、用水を樋門(樋板)でせき止めて水田の水口からの自然流入を基本としますが、用水面 と水田面に高低差のある水田では水車などを使用して水替えをする必要があります。人力の水替えには主に足踏みの水車が利用されていましたが、この作業で広大な水田全体を満たすには大変な重労働でした。
大正時代の終わりごろからの石油発動機の普及によって、次第にバーチカルポンプへと移行し、昭和30年代には水車での揚水作業がほとんど見られなくなりました。

▼第17回 第3章 干拓地・沖新田の農業風景1 堀田

海を干拓して作られた沖新田は、現在もその大半が0メートル以下の低地です。そこはもと海底面 であり、現在でこそ昭和30年代の嵩上げ工事で土砂を「埋立て」て新しく水田な水田が形成されましたが、それでも今なお海側に行くほど低地となり、潮止め堤防に近い地点の低位 部ではマイナス0.6〜0.7メートルの高さに水田が位置しています。
 この昭和30年代の工事が行われるまでは、とくに低湿地となった地点に「堀田(ほりた)」といわれる、この地域独特の水田形態が見られていました。堀田とは「堀上げ田」とも言われ、本来ならば水面 下に水没する土地を田として利用するため、水没地点の土を寄せ上げて畦状の長大な棚田をつくり、その最高部が水没しない高さとしたところへ田んぼ面 をつくり、稲作を行うもので、田んぼ面以外の部分は土を掘り下げられた状態で水路となります。棚田と水路の関係は、陸地に近い田んぼでは僅かな細く浅い溝から始まりますが、低位 部の田んぼへいくに従って棚田は細くなり、水路は広くなります。また棚田の高さ(あるいは水路の深さ)も、低位 部では人の背丈に近いくらいに高く(深く)なります。
 このような堀田は、日本では関東の利根川中流域の低湿地帯や、岐阜県の輪中地域、島根県の中海・宍道湖沿岸、佐賀・熊本県の有明海沿岸地域などに見られました。いずれも河川あるいは干拓地の中で農業、とくに米作りをしていくための工夫で、およそ江戸時代の中ごろに作られ始めたようです。沖新田の堀田がいつから作られ始めたのかは明らかではありませんが、1692年に干拓された当初から近年まで、土地の形態が大きく変化しているようすが見られないことから、おそらく干拓当初から堀田が存在したものと考えてよさそうです。
 では、こうした堀田での水田農業の様子を見てみましょう。
 堀田は毎年春先、3月から4月頃に堀の水を部分的に完全に排水して、堀と棚田の整備がされました。沖新田では「堀田替え」と呼ばれる、農作業のうち最も大変な仕事です。棚田に上げた土が堀の中にずり落ちてくるため、また堀の排水を改善するための作業です。
 水を抜いた堀の中に人が入り、水車や桶を使って堀を干し上げます。堀の底に溜まった泥を、「つる桶」といわれる、桶の両側上下に長い手綱を取り付けた、いわゆる「水替え桶」を使って、大人二人がその両端を引き緩めしながら、棚田の上へすくい上げます。昔は「箱鋤簾」といわれる巨大なチリトリのような木の道具を使い、3人ないし5人かがりで泥を引き上げていたようですが、効率として「つる桶」のほうが良かったのでしょう。嵩上げ工事で堀田が消滅するまで、ほとんどが「つる桶」を使用していたようです。
 「堀田替え」が終わると、人力で田を掘り、土を均し、代掻きをします。やがて堀に水を張って、6月下旬から7月にかけて田植えをします。この地域では、陸に近い堀田のない田では、冬場にイ草、または大麦・小麦・裸麦などを栽培していたため、それらの収穫の後、苗床で育てた苗を新田全体で一斉に植えていくのが一般 的でした。堀田で苗を植える際には、最初に棚田の縁から植えていくことになっていました。これは、やがて水が入った時に、棚田の端が分らなくなって、田植えや草取りなどの際に水路に転落しないようにするためです。
 その後もすべて人力での作業です。とくに低位部の堀の狭い部分は、田船での行き来で、田植えや稲刈りも田船の上からしていたようです。草取りも、稲刈り・脱穀も、田船で行き来して、作業はその田んぼで行われていました。もちろん、水路の少ない陸側の堀田では、無理に田船でいく必要もなく、場所によっては牛馬が作業の出来る場所もありました。しかし堀田での作業は基本的に、人力に頼るところが大きかったようです。
 ではなぜ、ここまでして堀田を作っていたのでしょうか。他の一般 的な農村では、ここまで大変な作業を毎年することはありません。沖新田では、もともと海底であったことから、塩害や水害には大変に悩まされた地域です。少しでも、僅かでも米を収穫をすることが農家の役目で、その僅から収穫のために人々は大変な苦労をしたのです。しかしこのように苦労をしても、稲穂が付き始めた9月頃には海の大潮のため、新田内に溜まった水が海に放流できず、海に近い堀田一体は何日も水浸かりして、「十日づかえ」「二十日づかえ」といわれるような水没時期が避けられませんでした。また台風で稲が倒れて稲穂が水没し、そこから芽が出てきて収穫にならないことも多くあり、農家は自然の怖さを肌身で感じながらも、その中で精一杯生きてきました。
 この堀田が消滅した原因は、昭和21年の南海地震の際、堀田面 が平均約60cm地盤沈下して、復旧が困難となったためで、その後最初に掲げたような嵩上げ工事がされ、現在は一面 に稲穂の実る美田となっています。
 
文献 「上南干拓」岡山県西大寺市上南土地改良区、昭和35年。



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